3-2 花熊村と水車

 六甲山地南麓の西摂灘地方では、元禄末期頃から各河川に水車の建設が始まった。特に菜種から油を絞るための水車が多数設けられ、一帯は菜種油の一大産地となった。その後採算性の悪化で絞油業は衰退するが、代わって水車による精米や、素麺業や線香製造業に関わる製粉が盛んに行われるようになり、明治以降も存続した。再度谷でも多くの水車が稼働するのに伴い、生産物を港から各地へ輸送するために必要な、山から海への物資運搬の労働と雇用が生まれ、その行き来による交通問題の萌芽も見られるようになった。


「字再度谷水車場麁絵図(水車場の絵図)」天保14卯4月(1843)

「字再度谷水車場麁絵図(水車場の絵図)」天保14卯4月(1843)

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 図の左が南(下流)で右が北(上流)、再度谷に11箇所の水車場が記されている。1番二茶屋村橋本善右衛門、2番宇治野村、3番花熊村、4番中宮村、5番神戸村善四郎、6番二茶屋村、7番神戸村、8番北野村、9番花熊村、10番二茶屋村、11番神戸村という割当てとある。
 「(絵図、再度谷の溜池・田畑地の絵図)」と比較すると、それに記載された水車場の3番地から13番地に相当するよう見て取れる。


「水車借請一札之事・規定書(水車の借用とその規定につき。水車敷地一所を五ヶ年借用するにつき)」癸天保14年卯2月(1843)

「水車借請一札之事・規定書(水車の借用とその規定につき。水車敷地一所を五ヶ年借用するにつき)」癸天保14年卯2月(1843)

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 花熊村の水車を神戸村の竹屋善九郎が借り受けるにあたり、約定を記し花熊村の役人に出した証文。
 水車およびその管理のための住居の敷地面積および施設・設備の一覧、この水車を丸5年間借用し精米に使用するにあたっての敷銀と定期の借り賃について、その料金と支払時期および支払いは豊作凶作によらず一定額を支払うこと、敷銀返却の条件等が記してある。
 また、別に規定として次のことが記してある。すなわち、
水車道具一式の修復は借主で行うこと / 水車道料(未詳)は毎年借主が支払うこと / 製品の運送にかかる税金は借主が支払うこと / 公の法令は遵守すること / 幕府の御林が近いため火の元には注意すること / 水車の敷地以外は勝手に使用しないこと / 米の運搬のためにあてがわれている2匹の牛のほかは花熊村からこれを雇うこと / 谷筋の道や村々の中を往来する際には農地や往来の邪魔にならないようにすること等々。
 以上より、水車1輌につき牛を2匹飼えること、その他の牛は近隣から雇用するよう定められていて、物資の運搬が近隣村の駄賃稼ぎとなっていたことがわかる。またその往来に対する注意にも触れられている。


「為取替一札之事(一輌につき飼運送牛は二疋に定め、雇牛賃銀・草刈についても 庄内で定めるにつき。水車の損所の修理につき)」(安政6)未12月(1859)

「為取替一札之事(一輌につき飼運送牛は二疋に定め、雇牛賃銀・草刈についても庄内で定めるにつき。水車の損所の修理につき)」(安政6)未12月(1859)

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 花熊村の住人が奥平野村の住民が普請した水車を打ち壊したため役人に訴え出た件について、取り調べの結果を双方理解して和解した際に、花熊村より奥平野村に宛て取り交わした文書。
 再度谷の新しい水車のうち花熊村が所蔵しているものの確認と水車1輌につき運送のために牛を2匹飼えるよう定めていること、足りない場合には福原庄内の村より牛を雇い入れる契約を交わしているがこれに意見の相違があること、荷物の運送と柴草の刈入については庄内の村で相談し食い違いのないよう定めること、池床譲りの証文は庄内の村々で相談の上必ず渡すこと、水車を壊した件は村の誰の仕業かわからないので、花熊村の方で修繕したこと等、これらに従わない場合には役人に申し出られても差し支えないよう取り計らうことなどが記してある。
 ここでも「水車借請一札之事・規定書」同様、水車1輌あたり牛2匹飼えるがその他の牛は庄内から雇うよう記されていることがわかる。また水車をめぐり他村とのトラブルがあったこともうかがえる。