酒造業への出稼ぎ
18世紀前半、西摂の灘五郷で大規模な酒造業が興隆し、それまで主流であった伊丹・池田など北摂の酒造地を圧倒する生産力を有するようになった。
灘地方が酒造業に適していたのは、①冬の寒気 ②湧水 ③水車業の発展 ④海運の便 ⑤播磨の米 ⑥優秀な職人など、様々な利点の存在による。
生産が冬季に集中し、大量の労働力を必要とするため、農閑期の出稼ぎ農民を採用していた。花熊村の人々にとっても、冬季の酒造稼ぎは農閑期の収入源となり、明和4年(1767)には、23人が「酒屋稼」として出稼ぎに出ている。また、村から遠国の酒屋へ出稼ぎに行く人々もいた。
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花熊村の徳右衛門が、相模国荻野新宿(神奈川県厚木市)の酒屋へ出稼ぎに行く際、村役人に申請した口上。他国に行く間も法度は守ること、留守中の諸役は与左衛門が勤めることを誓約している。
この史料に見られるように、酒造職人としての腕を買われ、遠国まで出稼ぎに行く村人もいた。
農間余業の稼ぎ
隣国の播磨で菜種油の製造が盛んになると、灘地方での製油量は相対的に減少していった。幕末期には、空いた水車を用いた線香業と素麺業が新たに盛んとなった。
線香製造は原料を水車で突き砕いた後、溶かした抹香を圧搾して線香にする作業であり、最低二人いれば作れるため、農家の余業としては最適であった。素麺の材料の小麦は、水車で製粉された後、農家に送られて麺にされた。当時の灘地方は素麺の一大産地で、現在の播州素麺は灘から伝わったものである。
また、村が西国街道や水車場に隣接していたため、荷物運びの収入を得るため多数の牛が飼われており、更に近隣の兵庫津や神戸村、二茶屋村が町場として発展するに伴い、稼ぎも多様化し、他所より人々が流入した。
線香業が盛んになる一方、大量生産の下職(したしょく)として多くの労働者が流入した。そうした下職は、賃金引上げを要求してボイコットを起こしたり、賃金を前借りしたまま他国へ逃亡したりするなど、様々な問題を引き起こした。そのため、そうした行為を禁止すると共に、関係者は問題のある下職を雇わない等、各種の対策を取るよう通告している。
稼ぎの変遷
花熊村での様々な稼ぎにつき、明和4年(1767)と明治4年(1871)の一覧を以下に挙げ、その変遷を見てみたい。
明和4年では酒屋稼(酒造業への出稼ぎ)」が圧倒的に多く、農閑期の主業であったことが分かる。また、稼ぎの種類自体も少なく、花熊村が近世農村の姿を留めていることが見て取れる。
明治4年になると稼ぎの種類が著しく増加しており、「洗濯(「異人衣類洗濯」を含む)」「日雇」「土方」など、神戸開港後の都市的職業も出現している。また村外からの人口流入もあった。「酒屋稼」は既に行われておらず、「素麺」「線香」といった水車を生かした稼ぎが新たに見られる。