花熊村は六甲山地の裾から南に続く台地の上を村域とし、その大半は田畑であったが、周辺の川より高い台地上で用水を確保するために、村内には多くの溜池が設けられていた。しかしながらそれでも干害に悩まされたため、村の北背の再度山中に新たな溜池を普請して日照りに備えた。いくつかの池は複数村の立会(共同利用)で運用されており、それに伴う村ごとの水の分配に係る取り決めや、池や溝筋(用水路)の維持管理の負担などが定められていて、村の営みに影響を与えていた。
「摂州八部郡花熊村絵図(花熊村の絵図)」
田畑の別など村内の土地利用の情報を色分けして書き込んだ絵図で、溜池や溝は青く描かれている。「摂津国花熊之城図」と比べると、村の集落周辺の溝筋が、かつての花熊城の堀を流用していることがわかる。
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■描かれた主な溜池(順番は絵図中に付した番号に対応)
①井垣池
花熊村、神戸村、宇治野村、中宮村立会。村域北辺の高地にある大きな池。「摂津国花熊之城図」にも花熊城の堀に繋がる水路と共に描かれており、古くから村の水利の中心。明治40年(1907)に埋め立てられ明治天皇御小休処が建てられた。現在は諏訪山公園のグラウンドで、往時の池の形状をよく留めている。
②塩の池
享保年間(1716-36)に描かれた「(山論のための絵図)」にも描かれている比較的古い池。
③新池、④いやの池(伊屋の池と表記)、⑤太郎四郎池(田郎四良池と表記)
いずれも寛政8年(1796)普請。
「(絵図、再度谷の溜池・田畑地の絵図)」明治7年1月(1874)
井垣池より北へ再度山に至る再度谷を描いた絵図。谷筋に3つの池が描かれている。3つの池がいずれも、麓の村々の用水を確保するため、谷の上流で水をせき止めた溜池であることがわかる。川に沿って1番地から20番地まで記されたのは水車場である。また山中の僅かな土地の所々に田が拓かれているのがわかる。
■描かれた溜池(上から)
○猩々池(寺山新池)
花熊村、神戸村、宇治野村、中宮村立会。文化12年(1815)普請。竣工の際に代官を招き池の畔で催した宴で謡曲「猩々」を舞ったことが名の由来という。竣工時に建立した記念碑と共に現存。
○深谷池
花熊村、神戸村、宇治野村、中宮村立会。享保13年(1728)普請。昭和初期まで同所に西池と呼ばれる溜池があったが昭和13年7月(1938)の阪神大水害で決壊して失われ、現在は跡地に砂防ダムが建設されている。
○堀切池
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寺山新池(猩々池)の新設により、神戸村新池に導水する溝筋を変更することになったのに伴い、取り決めを記して神戸村より花熊村に宛てた証文。
再度谷の池の水と井垣池の水は、昔から4村の取り決めにより、花熊村に2日、神戸村に1日、宇治野村と中宮村に1日の割合で分水していて、池の工事や維持に係る諸支出もその比率に従って各村に割り当てていたこと、日照りの被害が大きいため寺山口に新池を普請したことなど、ここに至る経緯が記されている。続いて、神戸村新池への導水には従来も花熊村の溝を用いていたが、今後は普請した寺山新池の水を神戸村新池に引き取るため、花熊村内の別の溝筋を用いること、毎年5月の夏至の頃から8月頃まで、花熊村に支障のないよう神戸村新池に引き入れ、冬場は通水しないこと、凶作の場合は相応の年貢を渡すこと、溝浚いは花熊村が行い神戸村は勝手に溝を浚わないこと、また勝手に芝や土を取らないことといった、今回の溝筋の変更とそれに伴う取り決め、守るべき事項が記されている。
複数村の立会による溜池の管理や普請と、そこに発生する水利権と付随する様々な問題を読み取ることができる。
再度谷の流水と同谷筋の溜池は、昔から花熊・神戸・中宮村3村の用水として使用され、昼夜の時刻で村々の分水をしているが、かつては分水の刻限の目安がないため時間の長短で争いが起きていたため、享保3年8月(1718)に当時の領主である片桐石見守に願い出て、再度谷に近く地面も高い花熊村の福徳寺の境内に梵鐘を作り、夏季には用水引渡しの目安に昼夜を知らせる鐘を撞いて知らせるようにしたところ、以後各村平和裏に用水を引き継ぎ、年貢も滞りなく納められていること、また最近では夏冬共に鐘の音によって用水を切り替え、加えて急な出水等の非常時にも鐘を用いて村々から人を動員していることなど、梵鐘を設置した経緯とその効能が記されている。また以上を理由として、梵鐘を所有し続けることを願い入れている。
「新規溝手一札之事」と比べると、再度谷の水の利用に宇治野村が挙がっておらず3村立会となっているが、その分水の内容は同様だとわかる。干害に悩まされる一方で、大雨の際には溜池が決壊し水害をもたらしていたことがうかがえる。