上知令と年貢の米納化
花熊村は、もともと大和国小泉藩の飛地であった。遠隔地で収公に不便なため、年貢は銀納が許されており、余剰米を販売して現金収入にすることが可能であった。灘地方の村々は、収穫した米を近隣の酒造家に売り払い、その売却益の銀貨で年貢を支払っていた。
しかし、明和6年(1769)に上知令が発布され、灘地方海岸部の33ヶ村・1万7千石余が幕府領に編入された。幕府も当初は年貢の銀納を認めていたが、幕府領は基本的に米納のため、翌年より年貢の四割を米納するよう申し渡した。
年貢の米納により、農家は現金収入が減少する上、酒造家もわざわざ他国より米を買い付けねばならないため難儀しており、元通り年貢の銀納を認めてほしいと嘆願している。
里山の下草刈り取り
灘地方は六甲山南麓に位置し、村々にとって山の管理は大切であった。花熊村では、里山の下草を刈り取ることにより、それらを田畑の肥料として活用すると共に、猪や鹿などに田畑を荒らさせない防止策にもしていた。幕府領となった後は、御林(幕府所有林)の刈り取りに年貢が掛けられるようになった。
花熊村が小泉藩領だった頃、里山での下草刈り取りは自由だったが、幕府領になると御林は立入禁止となり、荒れ放題となった。そのため、請願により御林の下草刈り取りが再開されたが、他村と同じく、毎年、銀九匁を年貢として納めねばならなくなった。
五兵衛さん一家
五兵衛さんは、近世後期の花熊村で生活していた農家である。一家6人と牛1頭の家族で、持高は7.5石。土地の貸付も借受もせず、持分の中でつつましやかに生活していたようである。花熊村の上層農家のモデルケースとして紹介する。
⇒ PDF画像へ(417KB)