1-2 花熊城と花熊村

 花熊城の築城は永禄10年(1567)もしくは天正2年(1574)ごろで、織田信長の命により荒木村重が1年のあいだに築いたと言われている。
 天正6年10月(1578)、荒木村重は信長に謀反し、有岡城(伊丹城)に立てこもったが、翌7年9月(1579)村重が逃亡、11月に有岡城は落城した。しかし村重の支城である花熊城は、最後まで抵抗を続けた。そこで天正8年2月(1580)、信長は池田信輝(恒興)、輝政らに攻撃を命じ、同年7月2日落城した。この功により信輝父子には摂津国が与えられた。
 花熊城は解体され、更地になった。解体された石材などの一部は、兵庫城築城に使用されたとされている。兵庫城は兵庫区の旧中央卸売市場本場跡地にあり、平成24年(2012)から発掘調査が行われている。この調査で発掘された戦国時代末期当時の石垣は、貴重な資料として注目されている。


「摂津国花熊之城図」部分

「摂津国花熊之城図」部分(岡山大学附属図書館池田家文庫所蔵)

 花熊城攻略の様子は寛文7年(1667)の絵図をもとに「摂津国花熊之城図」として表された。
 城図によると、花熊城は南に殿守と櫓を持つ本丸、堀を隔てて北に二の丸、三の丸があり、城の東側に侍町2丁と足軽町3丁の屋敷郭、西側に城下町があった。


現在の花隈公園

現在の花隈公園

 福徳寺が本丸の殿守付近にあたるとみられ、花熊村の集落は城域と西側の城下町部分にあたる。これは概ね現在の花隈町とも重なる。
 本丸の櫓の付近が現在の花隈公園である。現在の石垣は、昭和44年(1969)に駐車場が作られた際、城の雰囲気を残すために屋上を城跡公園として整備した時のものである。公園の中央には阪神淡路大震災後に再建された「花隈城址 侯爵池田宣政書」の石碑がある。


 花熊村には字名として「御所坂、北のかいち(垣内)、本丸ノ辻、本丸ノ東ノ根、二ノ丸、二ノ丸堀、三ノ丸、高城」など、城跡を偲ばせる地名が見られる。下の史料は明和6年(1769)の「名寄帳」の例である。
 名寄帳とは、検地帳に基づいて名請人(検地帳に登録された耕地や屋敷の所有者)ごとの石高をまとめたもので、字名に続けて田畑の種別とランク、面積、石高、名請人名、総石高(耕地が複数ある場合)が記されている。その中に「本丸ノこし」「掘ノはな」などの地名が確認できる。

名寄帳(花熊村田畑の面積・石数・所有者の書上)

「名寄帳(花熊村田畑の面積・石数・所有者の書上)」より 明和6年丑8月(1769)

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