「花熊」の名称は、南北朝時代の文書にも登場する。江戸期~明治5年(1872)は「花熊村」、明治5年に「花隈町」となった。鼻熊・華熊と表記されることもある。
名前の由来は、六甲山系の麓の大地が海に張り出している先端(鼻=ハナ)の稜線(隈=クマ)に位置するからであると言われている。
他に、神をクマと読むことから、生田神社領内を意味する神内(くまうち)に対し、そのはずれ(ハナ)に位置するためという説もある。
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主な区域は現在の阪急電鉄神戸高速線花隈駅の北側であり、兵庫県庁、兵庫県警本部、相楽園付近を含む神戸市中央区花隈町、北長狭通5丁目、下山手通4~6丁目、中山手通4~6丁目、および再度筋町と諏訪山町、山本通4丁目、北長狭通6丁目の一部を含む。福徳寺、四宮神社の場所は当時とほぼ同じである。
南に二茶屋村、北に中宮村、東に神戸村、西に宇治野村が位置した。これらの村と北野村を合わせた六ヶ村で福原庄を構成し、水利、入会山の管理等を共同で行っていた。
主な産業は農業で、隣接する神戸村・二茶屋村が、西国街道沿いの兵庫津にも近い町場として発展していたため、その近郊農村として位置していた。
花熊村には大土地所有者はいなかった。3石未満の零細農民が約半数を占めており、線香や素麺造りなどの内職の他、農閑期には神戸村や二茶屋村に酒造業などの出稼ぎに行くことで生計を立てる者が多かった。
花熊村には多くの村民の檀那寺である福徳寺を中心とした集落があり、その周囲に田畑が広がっていた。住居部分を見ると、北西端に「屋敷 持主 五郎兵衛」とあり、村上家の屋敷の位置がわかる。村上五郎兵衛氏(村上家当主)は明治7年(1874)の段階で当時の下山手通6丁目に居住していた。
また、明治14年(1881)の地図と比較すると、山手の道路の開通や、県庁の設置(現在の兵庫県公館の敷地)など、大きな変化を遂げているが、周辺にはまだ田園風景が広がっていた様子がわかる。