現在の神戸市中央区、六甲山地西部に位置する。東寺真言宗。宇治野村から18町、花熊村からは21町離れていたという。『攝津名所圖會』の挿絵から、再度山の山頂付近に伽藍が配置されていることがわかる。
近世においては、北野村・宇治野村・神戸村・花熊村・二茶屋村・中宮村の福原庄内6ヶ村立会で維持されていた。中でも花熊村が大龍寺の寺元とされており、花熊村庄屋が本尊の鍵・寺判・諸書物を管理していた。このような背景により、多くの大龍寺関係の文書が村上家文書に残されている。
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大龍寺の縁起によると、神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅を受けた和気清麻呂によって創建された当時は、摩尼山如意輪寺と号していた。延暦年間(782~806)に入唐前の空海が参堂し、帰朝後にふたたび訪れたことから再度山、阿波の大龍岳に似ていることから大龍寺と名付けられたという。海上渡航の守護、福寿増長・愛子授与の願いをかなえる寺として参詣されていたようだ。
鎌倉時代には度重なる戦火によって伽藍を失うものの、観応2年(1351)、赤松範資の援助で善妙が中興し、後円融天皇の病を癒して篤く帰依された。戦国期に再び衰壊したが、寛文年間(1661~73)に実祐・賢正が再興した。
本尊の木造菩薩立像(伝如意輪観音像)は行基作ともいわれる。像高180.4cm、檜の一木造、一部に乾漆をまじえる奈良時代の作で国指定重要文化財。神戸最古の仏像として名高い。
大龍寺は戦国期には荒廃していたが、寛文8年(1668)、尼崎大覚寺を隠居した実祐が再興の志願をして当寺に入院する。しかしわずか数年で没し、弟子の賢正が後を継いで寺を再興する。以降、寛盛・鏡映と四代続けて尼崎大覚寺の僧侶が大龍寺看坊となるが、鏡映は寺役の懈怠・山林の利用をめぐって福原庄と対立してしまう。
これは賢正の任期の終わり頃に作成されたもので、伽藍・本尊・宝物などが記されている。手書きではなく印刷物なので、参拝者に配布したか、寄進者に御礼として渡したものだろう。
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