正徳4年(1714)、鏡映は病気を理由に退任を申し入れるが、その後任をめぐって福原庄との間に相論が起きる。大覚寺がこれまで通り大覚寺僧を後任に送り込もうとしていたところ、福原庄の庄屋・百姓が大龍寺へやってきて、什物を返却すべきことと後住の任命は村が行うことを通告し、本尊の戸帳を持ち去った。そのうえ昼夜を問わず番人を置き、終には鏡映を寺から追い出した。
この騒動の背景には、尼崎大覚寺をバックアップしていた尼崎藩主が、宝永8年(1711)に青山氏から松平氏へと交代したことが要因のひとつとして考えられる。
相論での双方の主張を比較してみると、鏡映(大覚寺)と福原庄の間に次のような見解の相違がみられる。
(1)大龍寺諸堂の再建について
鏡映: 実祐が青山大膳亮様に御願い申し上げ、実祐・賢正・寛盛・鏡映の四代で再建したと主張
福原庄: 庄内として諸堂を再建したと主張
(2)大龍寺住持(看坊)について
鏡映: 代々尼崎大覚寺より就任すべきものと主張
福原庄: 一代切りの契約であり、住持は大覚寺に限らないと主張
大覚寺側にしてみれば、大龍寺を再興したのは大覚寺だと認識しているわけで、大覚寺僧が看坊になるのも当然だと考えていたのだろう。一方の福原庄側は、堂舎再建は庄中として行ったものであるし、そもそも実祐以前の看坊は大覚寺以外の僧であったこと、賢正や寛盛は花熊村庄屋の子分にして入院させていたことも述べ、看坊は庄中で器量をみて決めるものだと反論している。
その後の経過は不明だが、最終的には福原庄の言い分が通り、大覚寺僧ではない玄海が大龍寺に入院することになる。
11月11日付文書は看坊鏡映(大覚寺)側、11月21日付文書は福原庄側の主張を記したものである。
看坊が大龍寺に入院する際には、「仏閣・僧坊などの修覆・建立で庄内に役害をもたらさないこと」「什物を失わないこと」「山林竹木などは猥りに刈らないこと」などの約束事を書いた入院證文を福原庄との間で取り交わしているが、相論の前後で看坊の罷免に関する条項に次のような変化がみられる。
ここに挙げた2通の証文は、上が相論以前(鏡映の入院證文)、下が相論以後(玄海の入院證文)のものである。
相論以前は、福原庄側が粗略の儀があると主張して看坊を辞めさせようとしても、看坊が否定すれば強制的に辞めさせることは難しかった。これに対し相論以後は、庄内が気に入らないと言うだけで、看坊の意に関係なく一方的に辞めさせることができるようになっている。
鏡映と福原庄との相論では、看坊の任命権について、大覚寺の代々の僧侶が任じられるのか、福原庄が任じるのかが問題となっており、看坊の立場が再考されたはずである。その結果、看坊が力を持たないようにするため、簡単に看坊を罷免することができるように入院證文の文言を替えたと考えられ、福原庄側が立場を強めていったことが読み取れる。
このように、福原庄による鏡映の追放は大覚寺の影響力を排除することにつながり、福原庄による大龍寺運営の基礎となっていったと考えられる。その後、福原庄6ヶ村による大龍寺の管理は明治初期まで続いている。
大龍寺の維持は福原庄の役目とはいえ、麓の村々からはかなり離れた山奥にあるため、実際の管理は現地に在住する看坊に任されていたと考えられる。その結果、看坊が寺判を返却しなかったり、勝手に本尊の扉を開いて祈祷を行うなど、福原庄との間でトラブルも起きていたようだ。この史料では、寺判を管理する花熊村の庄屋が、大龍寺看坊の玄浄に対して判を返すように求めている。