1-3 福徳寺と四宮神社

福徳寺

福徳寺
 浄土宗福徳寺の正式名称は花岡山禅定院福徳寺で、知恩院末寺。
 縁起によると、建久年間(1190-99)九条兼実(禅定殿下)による創立。法然が下宿し、勧化を行ったという。楠木正成が湊川の戦いに負け自害する際に、護身の十一面観音を奉納したとも伝えられる。もとは平野にあり、天正年間(1573-92)に花熊の地に移ったとされている。
 現在、山門の前には「花隈城天守閣之跡」の石碑が立っている。

「明細帳」は村勢要覧のような帳面で、村内の石高、家数、人口、耕地面積、産業、寺社など村況全般が書かれたものである。福徳寺については、安置されている仏像、建造物、檀那の家数などがわかる。

「明細帳(花熊村の明細の書上)」より明和4亥年5月(1767)

「明細帳(花熊村の明細の書上)」より 明和4亥年5月(1767)

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四宮神社

四宮神社
 四宮神社は現在、県庁の北側を少し西に向かった場所にあり、高層ビルに挟まれるように位置している。阪神淡路大震災で社務所が半壊し、14階建てのビルに建て替えられた。ご祭神は市杵島姫命(弁財天)で、現在も芸能の神として奉られている。創立年月は不詳。
 神功皇后が三韓征討の帰途巡拝されたという。花熊城築城にあたり鬼門鎮護の神として荒木村重より弊帛が献上されたと伝えられている。花熊城が落城した際は兵火に罹り、焼失した。
 また、明治38年(1905)に大火のため焼失し、同43年(1910)に再建。昭和20年(1945)の空襲で再び被害を受けたが同38年(1963)に再建された。現在は「よのみやじんじゃ」と称される。

 「明細帳」の記載によると、当時は東西26間半×南北22間半(約48.2 × 40.9m)の松林のある境内に5×6尺(約1.5 × 1.8m)の「王子造り こけら葺き」の社があったとのことである。

「明細帳(花熊村の明細の書上)」より明和4亥年5月(1767)

「明細帳(花熊村の明細の書上)」より 明和4亥年5月(1767)

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