2-4 異種百人一首

 「百人一首」と言えば、多くの方が思い浮かべるのが、藤原定家によって編まれた、いわゆる『小倉百人一首』ではないだろうか。この『小倉百人一首』が歌かるたとしても用いられ、江戸初期から安価な木版刷りのかるたが出回ったことで、庶民の間にも広く浸透した。これにより『小倉百人一首』に倣った「百人一首」が数多く生み出された。それらは大きく2つに分類され、1つは『小倉百人一首』の形式に倣い、それぞれのテーマに基づいて新たに100の歌を撰んだ「異種百人一首」(「変わり百人一首」などとも呼ばれる)、もう1つは『小倉百人一首』そのものをもじった「もじり百人一首」と呼ばれるものである。

『後撰百人一首』[二条良基撰?] ; 筒井尚堂書伯手澤 ; 淵上旭江畫宗縮圖 1807(文化4)年

 二条良基撰(1320-1388)と伝えられており、本来であれば初期の異種百人一首であるが、後世の偽撰ともみられている。多くの歌は勅撰集から採られているが、私撰集からもいくつか選ばれている。時代は平安前期から南北朝時代で、時代的配列ではない。

右頁:馬内侍(うまのないし)
 ちはやぶる かもの社の 神もきけ 君わすれすば われも忘れじ
左頁:山階入道前左大臣(やましなのにゅうどうさきのさだいじん)
 久方の 天照る月の かつら川 秋のこよひの 名に流れつつ

※翻刻は伊藤嘉夫「異種百人一首十種」より引用 ( )内は引用者による

『列女百人一首』緑亭川柳輯 ; 葛飾卍老人, 一陽齋豊國畫 1847(弘化4)年

 緑亭川柳輯で先に出した『英雄百人一種』に対応するものとして刊行。葛飾北斎と三代目歌川豊国(国貞)が絵を手がける。序文によると、古より貞女や烈婦と呼ばれる女性の中で和歌の道に志のあるものを選んだとしている。上段には略伝・逸話をのせている。

右頁:絵島海女(えじまのかいじょ)
 しら波の よする渚に よをすごす 蜑(あま)の子なれば 宿もさだめず
左頁:莵名日処女(うないおとめ)
 住みわびぬ 我身なげてん つのくにの 生田の川は 名にこそありけん

※翻刻は伊藤嘉夫「武家百人一首とその類列の百人一首」より引用 ( )内は引用者による

列女百人一首

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『秀雅百人一首』緑亭川柳輯 ; 前北齋卍老人 [ほか] 畫工 1848(弘化5)年

 『英雄百人一種』『列女百人一種』が好評で出したもの。諸名画集筆として前北齋卍老人(葛飾北斎)・一勇齋國芳(歌川国芳)・柳川重信(二代目)・溪齋英泉(池田英泉)・一陽齋豊國(三代目歌川豊国=国貞)が絵を手がけ、当時いかに流行っていたかが窺える。歌人は中・近世歌人のほか、茶人や武人など様々。上段に略伝・逸話をのせている。

右頁:武田信玄
 立ちならぶ かひこそなけれ 山ざくら 松に千年(ちとせ)の いろはならはで
左頁:越後謙信
 武士(もののふ)の 鎧の袖を かたしきて まくらに近き 初雁のこゑ

※翻刻は伊藤嘉夫「異種百人一首十種」より引用 ( )内は引用者による