2-1 赤穂事件と忠臣蔵

1702(元禄15)年12月14日未明、元赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士47名は吉良邸に討ち入り、高家肝煎であった吉良上野介義央を討ち取った。
前年3月14日に江戸城内松之大廊下で発生した赤穂藩主浅野内匠頭長矩による刃傷沙汰に端を発するこの事件は、当時の庶民にとっても非常にセンセーショナルな出来事であり、強い関心とまた忠義を体現した赤穂浪士たちへの好意をもって受け止められた。

『再板假名手本忠臣藏』竹田出雲 ; 三好松洛 ; 並木千栁作 [江戸中期]

仮名手本忠臣蔵_画像

表紙および館騒動の段:赤穂事件をモチーフとして『太平記』の時代に内容を移して作成された。


 赤穂事件の直後から同事件をモチーフにした作品は多数作成されたが、その中で最も有名な作品は、1748(寛延元)年に浄瑠璃の台本として竹田出雲らによって執筆された『仮名手本忠臣蔵』であろう。本学で所蔵している資料は、江戸中後期ごろに再版されたものだが、その奥付からは三都で同時出版されたことが分かり、本作が人気作品であったことの一端が垣間見える。
 人形浄瑠璃で大いに人気を博した『忠臣蔵』は、同年に早くも歌舞伎として演じられた。歌舞伎化した本作品も非常な人気を誇り、劇場に不入りが続いた時は同演目を上演すれば良いと言われ、「独参湯(漢方薬の一。気付け薬。)」の異名を取るまでになる。現代においても赤穂事件を扱った作品を「忠臣蔵」と名付けたり、一連の事件を「忠臣蔵」と呼称することが一般的になっているなど本作の影響は依然として大きく残っている。

義士仇討之圖 廣重画[左]  四段目: 大星由良之助 豊國画[右]

 忠臣蔵は画題としても好まれていたようで、本学でも、歌川広重が浪士討入の場面を描いた「義士仇討之図」3枚、および同様の場面に取材した歌川貞秀の浮世絵を3枚、そして四段目において主君塩谷判官形見の刀を抱いた大星由良之助を三代目歌川豊国(国貞)が描いたものを1枚所蔵している。

義士仇討之図_画像

大星由良之助を中心に雪の中吉良邸討入直前の赤穂浪士たちの様子を描いている。

大星由良之助_画像

袖の模様は正面摺の技法を使って描かれている。

『忠芬義芳詩巻』 河原寛士栗輯 ; 土井有恪士恭校 1859(安政6)年

 大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士たちは創作の対象としてのみならず、武士の忠義を全うした忠義の士として顕彰されもした。
 『忠芬義芳詩巻』は、赤穂藩の儒学者河原翠城が赤穂浪士を讃える目的で各地の名士の漢詩を集めた漢詩集である。詩作者の居住地は全国にわたっており、赤穂浪士の評価は国内の広い地域で高かったことが分かる。

『赤城義臣傳(扶桑義臣傳)』片島深淵子編 1868(慶應4)年
 片島武矩が赤穂浪士の十七回忌にあたり、その義勇を顕彰する目的で1719(享保4)年に執筆した『赤城義臣伝』は、実名を出して赤穂事件の顛末を描いた作品である。
 本書は幕末の慶應年間に再版が行われており、事件発生直後から根強い赤穂浪士人気が連綿と続いていたことが窺える。