1-1 江戸時代の天文学書

 八代将軍徳川吉宗は西洋科学を奨励し、西洋の天文学に基づいた暦法の導入を進めたことでも知られる、天文学と関わりの深い人物である。自ら天体観測を行っていたという記録も残されている。1720(享保5)年には禁書令を緩和。キリスト教に関係のない洋書の輸入が認められ、西洋の科学書も輸入されるようになった。日本における蘭学発展の発端となった政策である。

『天經或問』游子六輯答 ; 西川正休訓點 1794(寛政6)年
天經或問_画像

北極至赤道圏中分一半見界總星圖
数多の星座が描かれており、北斗七星の姿も見える。

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 中国清代の游子六が、イタリア人宣教師から伝えられた西洋天文学を記した天文学書。問答形式になっていることから『或問』というタイトルが付けられている。游子六はイエズス会士の影響を受けていたため地動説を完全には採用せず、天動説と地動説を折衷したような宇宙観を紹介している。
 日本では禁書令により一時輸入が禁止されていた。輸入の禁を解かれた後、西川正休が訓点を施し1730(享保15)年に出版。以後、『天経或問』は広く普及するようになった。江戸時代の天文学者たちに大きな影響を与え、『天経或問』についての研究書も数多く出版された。本学所蔵のものは1794(寛政6)年の校訂版。

『和蘭天説』司馬峻著 1796(寛政8)年
和蘭天説_画像

右ページではティコ・ブラーエの説として地動説と天動説との折衷説を紹介。左のページでコペルニクスの説として地動説を紹介している。

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 西洋天文学を紹介した啓蒙書。著者の司馬江漢(司馬峻)は洋画家であるが、西洋の天文学・地理学などに興味を持ち、それらを一般に広めるため書物を著した。江漢は1793(寛政5)年刊の『地球全図略説』に続いて、この『和蘭天説』でも地動説を紹介している。
 コペルニクスとケプラーを混同するなど不正確な記述も数々見られるが、日本で地動説を紹介した書物としては初期のものであるといえる。巻頭にて「西儒及ビ子六等ガ所説ノ善ヲ取非ヲ捨テ…」と記述しており、執筆にあたっては游子六の『天経或問』も参考にしていることがわかる。(「子六」は游子六のこと。「子六等ガ所説」とは『天経或問』を指す。)

 

『理學入式遠西觀象圖説』吉雄俊藏口授 ; 草野養準筆記 1825(文政8)年
理學入式遠西觀象圖説_画像

地球・太陽・月の相対位置と黄道上の位置関係を示す図。
印刷された円盤の上に、4つの別の紙で作った円盤を重ねたもの。紙のこよりをとおし、それぞれを回転させることができる。

 西洋天文学の入門書。1823(文政6)年刊。江戸時代末期を代表する天文学書とも言われている。図を多く掲載し、しかけつきの円盤を付けるなど、読者が理解しやすいよう工夫が施されている。
 題言によると「此編ハ、西洋究理諸書数部ヲ訳定シ、其要ヲ資ルニ成レリ」とあり、数種のオランダ語書物に基づいて書かれたものであることがわかる。吉雄俊藏が家塾で行った天文学の講義を門下の草野養準が筆記し出版しようとしていたが、草野が亡くなったため、吉雄がその遺志を憐れみ、遺稿を完成させて出版した。本学所蔵のものは1825(文政8)年に補刻されたもの。
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