江戸後期を中心に庶民の生活を面白可笑しく描いた滑稽本が多数出版された。中でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、非常に人気を集め、1802(享和2)年から1809(文化6)年まで8年間にわたり、8編が出版され、その後も続編が出版された。また、その人気にあやかろうと各地で亜流本も多数出版された。
十返舎一九(1765-1831)
駿河国府中(静岡)で同心の子として生まれる。大坂で近松余七の名で浄瑠璃を合作した後、江戸の本問屋・蔦屋重三郎の食客になり挿絵や錦絵を画いた。1795(寛政7)年、黄表紙『心学時計草』を発表。以後、洒落本から読本まで様々な戯作を執筆。67歳の生涯で300以上の作品を残し、執筆料だけで生計を立てた最初の職業作家と言われている。
『東海道中膝栗毛』十返舎一九著 1802-1814(享和2-文化11)年
弥次郎兵衛・喜多八(北八)の二人が江戸から伊勢参詣、その後、奈良・京都・大阪まで東海道を旅する途中で様々なドタバタを起こす喜劇。挿絵の多くは一九自身が画いている。
庶民の憧れの娯楽であった旅をテーマにしながらも名所案内とは違い、景勝は記さず各地の名物や遊戯を面白可笑しく取り上げた。また、地方の読者も獲得するために挿入された狂歌に地方文人の作品を載せたり、会話体を中心にして難解さを避け、地域・老若男女問わず誰でも笑える分かりやすい娯楽作品としたことが、ヒットした要因のようである。当館では8編執筆後に書かれた発端を含む16冊(第3編上下巻は未所蔵)を所蔵している。
『播州膝栗毛』十返舎一九著 1813(文化10)年
序と附言によると、『続道中膝栗毛』の第2編(宮嶋参詣)刊行後、第3・4編(木曽路)に移ったが、名所旧跡がある播磨を飛ばしたのは心残りという書肆(版元)の勧めで、第3・4編の出版後に第2編追加という形で「播州膝栗毛」を出版したとなっている。
1812-1813(文化9-10)年に一九は播州旅行をしたと言わせており、その際の体験をもとに書かれた作品のようである。
上巻は宮嶋参詣後、播磨・姫路から高砂を経て明石まで巡って来たところで、下巻へ続くとなっているが、当館では上巻のみ所蔵。他に兵庫県内では姫路市の歴史研究家が上下巻を、加古川市内の画廊が上巻を所蔵しているのみという(「神戸新聞」2001年1月31日夕刊記事より)。
『播刕廻り膝栗毛』彦玉著 1807-1824(文化4-文政7)年
江戸に住む二人の道楽者が播州を巡る道中記。前・後編4冊からなり、前編は播州に着くまで、後編で明石から加古川、高砂など播州を巡っている。
「前・後編ともその文章は戯言の繰り返しで、当時の道中記もの人気に便乗したとしか思えぬ内容」と評されている (『播磨の郷土文献』寺脇弘光著) 。
1886(明治19)年に全文平仮名の翻刻版が金泉堂から出版されている。
『西洋道中膝栗毛 : 萬國航海』假名垣魯文戯著 1870-1872(明治3-5)年序
弥次・喜多と同名の孫がロンドン博覧会へ行く道中記で、亜流本ではよく知られた作品。当時の西洋ブームを受けてベストセラー本になった。魯文自身は海外へ行ったことはなかったが福沢諭吉の『西洋旅案内』『西洋事情』を参考に、洋行帰りの横浜商館番頭に話を聞くなどして書いたとされている。全15編30冊に及ぶ長編だが、12編以降は総生寛が執筆。当館では魯文が執筆した11編までを所蔵している。絵は落合芳幾、河鍋暁斎他。