採録新聞の歴史的記述などは、以下の参考資料に拠っております。

  • 小野秀雄『日本新聞発達史』(大阪毎日新聞社, 1922)
  • 山本文雄『日本新聞史』(国際出版, 1948)
  • 『地方別日本新聞史』(日本新聞協会, 1956)
  • 『日本新聞百年史』(日本新聞百年史刊行会, 1960)
  • 内川芳美『新聞史話 : 生態と興亡』(社会思想社, 1967)
  • 『新聞販売百年史』(日本新聞販売協会, 1969)
  • 功刀真一『北海道・樺太の新聞雑誌』(北海道新聞社, 1985)
  • 国立国会図書館逐次刊行物部『全国複製新聞所蔵一覧(平成5年7月1日現在)』(国立国会図書館, 1994)
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館, 1979-1997)

以上の資料に拠った記述については、引用個所の明記は行っておりません。その他の資料より得た情報については、出典を明記しています。
記述に関する誤りや疑問などのご指摘がありましたら、 附属図書館電子図書館係までいただけると大変幸いです。

東京発行の新聞

海運週報
官報
国民新聞

明治23(1990)年2月、徳富蘇峰により創刊された。当初は「平民主義」を唱えたが、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を取るようになった。明治後期から大正初期にかけては政界中枢にある山形有朋・桂太郎の藩閥勢力と密接な関連があり、日露講話問題(明治38年)や憲政擁護運動(大正2年)ではいずれも桂内閣を代弁する論陣で群衆の襲撃にあっている。
一方で日本新聞史上はじめて地方版を創設(明治40)するなど紙面改良に熱心であった。桂太郎の死去後は党派色を薄めて一般紙に脱皮、東京五大新聞に数えられるようになった。蘇峰の人気も根強かった。
しかし、関東大震災で大打撃をうけて経営は著しく悪化し、甲州財閥根津嘉一郎の援助を受けることとなったが、根津側の紙面に及ぶ干渉に耐えかね、昭和4(1929)年1月に蘇峰は退社した。
その後昭和8(1933)年に名古屋の「新愛知」傘下に入り、17(1942)年10月新聞統合で「都新聞」と合併廃刊、「東京新聞」となって戦後にいたっている。

時事新報,東京時事新報

明治15(1882)年3月、福沢諭吉によって創刊された。政党新聞全盛の当時にあって、不偏不党の立場から時事を論じたのが大きな特色である。特に、国際報道に力を入れており、明治26(1893)年にはロイター通信と独占特約を結んでいる。日英同盟や第一次大戦前後においての活躍もめざましかった。経営・編集の中核は福沢門下の慶応人脈であり、東京の新聞界にあってその権威という点では高い評価を得ていた。
大正2(1913)年の憲政擁護運動では桂内閣打倒の論陣に加わった。
大正中期以降は、大阪で創刊した「大阪時事新報」の不振などから経営が悪化し、さらに関東大震災で大きな痛手をこうむった。この時期には社内人事抗争や名物記者の退社も続いた。不振を取り戻せないまま経営者交代が相次ぎ、昭和7(1932)年には鐘紡の武藤山治に経営が委ねられたがこれも奏効せず、9年に武藤が凶弾に倒れたころにはますます不振が深刻となり、結局11(1936)年12月をもって「東京日日新聞」に併合される形で解散・廃刊となった。
戦後、関係者によって再刊されたが成功せず、最終的には「産経新聞」に吸収合併された。

中央新聞

明治23(1890)年6月大岡育造により「東京中新聞」として創刊、24年8月に「中央新聞」と改題された。初期から政友会(33年発足)と近い関係にあったが、明治43(1910)年には政友会に譲渡された純然たる政党機関紙となった。大正3(1914)年のシーメンス事件にあっては世論の総攻撃の中で政友会与党の山本内閣を支持し、群衆の襲撃目標とされている。
その後関東大震災で社屋を焼失するなどして社運は衰退したが、昭和15(1940)年の政友会解党までは存続した。16(1941)年1月から「日本産業報国新聞」と改題した。

中外商業新報,日本産業経済新聞

明治9(1876)年12月、「中外物価新報」として創刊された(週刊)。中心となったのは三井の益田孝で、その後も三井財閥と非常に近い関係を保った。
明治22(1889)年1月に「中外商業新報」と改題、商業記事を中心とする経済紙ながら、政治・社会記事も掲載するようになった。25(1892)年には夕刊「商業新報」も発刊している。
明治44(1911)年には三井合名会社の全額出資で株式会社化、大正期には商工階層を中心に部数を伸ばした。大正13(1924)年には大阪へ進出して夕刊紙「大阪中外商業新報」を創刊している。
昭和15(1940)年に三井を離れて自主経営となり、昭和17(1942)年新聞統合により「日刊工業新聞」等を合併して「日本産業経済」となった。戦後「日本経済新聞」となって現在にいたっている。
※当文庫では原資料の切抜帳に従い、新聞名を「日本産業経済新聞」としていますが、『日本経済新聞社百年史』(1976, 日本経済新聞社発行)p.130には「日本産業経済」と記載されておりますので、説明文中の紙名は「日本産業経済」としました。(2012.7.5)

東京朝日新聞

明治21(1888)年7月、「大阪朝日新聞」の村山竜平が自由党系の機関紙「めざまし新聞」を買収して創刊された。大阪流の経営戦略で急激に部数を伸張し、東京各紙に大きな刺激をあたえた。その後池辺三山が主筆となった明治30年代以降大きく発展した。
論調に政党色は薄かったが、大正2(1913)年の憲政擁護運動では桂内閣打倒の論陣に加わっている。
第1次世界大戦と戦後のベルサイユ講和会議に際しては、「大阪朝日」が各地に派遣した記者からの特報を掲載して注目された。大正期にも部数は順調に伸張している。
昭和15(1940)年、東京・大阪・西部・名古屋の四本社体制が確立し、題号を「朝日新聞」に統一した。

東京新聞

昭和17(1942)年10月、新聞統合で「国民新聞」と「都新聞」が合併して創刊された。首都圏の地元紙で、昭和20年代までは夕刊紙であった。

東京高等商業学校同窓会会誌
東京日日新聞

明治5(1872)年2月、東京における最初の日刊紙として創刊された。自由民権運動期には福地源一郎が政府と密接な関係を持ち官権派新聞といわれたが、福地の引退により明治20年代以降は政府との関係は絶たれ、中立的な立場となっていく。
日露戦争の戦地通信で部数を大きく伸ばしたが、明治末年には経営が悪化した。経営は伊東巳代治、加藤高明を経て一時三菱財閥の手にあったが、明治44(1911)年3月「大阪毎日新聞」に譲渡されることとなった。
大正2(1913)年の憲政擁護運動では、桂内閣打倒の論陣に加わった。第1次世界大戦と戦後のベルサイユ講和会議にあたっては、「大阪毎日」が各地に派遣した記者からの充実した特報を掲載し大いに評価を得た。特に青年層に浸透して、大正10年ごろには当時最大部数の「報知新聞」に肉薄するまでに伸張した。
関東大震災では「報知新聞」「都新聞」とともに焼け残り、その後東京で最大部数を持つに至った。
昭和18(1943)年1月、「大阪毎日」と題号を統一し「毎日新聞」となった。

東京毎日新聞

明治3(1870)年に創刊されたわが国最初の日刊新聞「横浜新聞」を淵源とする。その後、「横浜毎日新聞」「東京横浜毎日新聞」「毎日新聞」と変遷し、明治39(1906)年に「東京毎日新聞」となった。現在の「毎日新聞」との関係はない。
明治末期には報知新聞の傘下にあったが振るわず、大正3(1914)年に山本実彦に譲渡された。その後も安定せず経営者は頻繁に変わった。昭和15(1940)年10月に「帝都日日新聞」に吸収されて廃刊となった。

日本新聞,日本

明治22(1889)年2月11日、帝国憲法発布にあわせて創刊された。陸羯南を社長とし、国粋主義を掲げて、明治政府の欧化政策に代表される当時の社会・政治を批判する論陣をはった。政党との関係を持たず、純粋に思想的立場から言論を行う点で、異彩を放った新聞で、数多くの名記者を擁していた。
しかし明治39(1906)年、経営難と自らの病気から羯南は経営権を手放し、長谷川如是閑らの名物記者は雑誌「日本及日本人」に移って社を去ってしまった。その後の「日本」は政友会系の商業紙となるが経営は回復せず、大正3(1914)年社屋焼失を機に廃刊となった。

二六新報(二六新聞)

明治26(1893)年10月26日、秋山定輔により創刊された。当初は大新聞型の硬い紙面で売れ行きが悪かったが、休刊をへて明治33(1900)年に復刊すると1部2厘の破格の廉価やセンセーショナルな紙面で「万朝報」に対抗して庶民へのアピールをはかって部数を大幅に伸ばした。その後激しい政府攻撃などを続けて、一般紙としては珍しく、発売禁止・差し押さえを数十回も被り、発行禁止処分も2度受けている。
明治37(1904)年に秋山がロシアのスパイだという「露探事件」がおこった。当時の桂内閣系による陰謀といわれるが、これを機に部数が下降線をたどることになる。桂との関係は後に修復、大正2(1913)年の憲政擁護運動では逆に桂内閣を支持して群集の襲撃を受けた。
また、発行禁止処分との関係で、明治37年4月〜42年12月まで「東京二六」、その後いったん「二六新報」に戻るが、大正3年7月〜11月は「二六新聞」、大正3年11月〜7年2月は「世界新聞」と題号を変えることとなった。大正7(1918)年2月以降「二六新報」に復元するがその後もふるわず、昭和15年(1940)9月に終刊となった。

報知新聞

明治5(1872)年6月「郵便報知新聞」として創刊された。初期には、大隈重信の改進党に近い政論紙として大きな影響力を持った。
その後一時低迷期を迎えるが、大隈から経営を委ねられた三木善八により27(1894)年12月に「報知新聞」と改題し、商業的報道紙として再発展した。明治末には単独紙としては最大部数の新聞となり、大正末期までその地位を保った。関東大震災に焼け残った後には、一時百万部を超えたともいわれる。販売店直営制など、販売面でも画期的な新聞であった。
なお、この時期にあっても歴代社長は改進党から憲政会、民政党と進む政党系列の幹部であって、これらの政党寄りの論調が紙面に現れることもあった。大正2(1913)年の憲政擁護運動では桂内閣支持に回って群衆の襲撃を受けている。
大正末期から大阪資本の「東京日日新聞」「東京朝日新聞」と激しい販売競争を繰り広げたが劣勢となり、昭和5(1930)年6月、経営権は講談社の野間清治に移った。しかし、往時の地位に復帰することはできず、その後曲折を経て16(1941)年8月読売の経営下に入り、17(1942)年8月から「読売新聞」に統合吸収された。現在は周知の通り、読売系列のスポーツ紙に紙名をとどめている。

法律新聞

明治33(1900)年9月、高木益太郎により創刊された(週刊)。大審院・下級審の判例報道・解説を中心として、外国の立法状況なども報道している。
昭和19(1944)年8月に終刊。

都新聞

明治17(1884)年9月に仮名垣魯文を主筆として創刊された夕刊紙「今日新聞」を出発点とし、21(1888)年に「みやこ新聞」、次いで「都新聞」となった。
大正8(1919)年福田英助の経営となった後、商況欄や演芸欄の充実などにより部数を伸ばした。
昭和17(1942)年10月新聞統合で「国民新聞」と合併廃刊、「東京新聞」となって戦後にいたっている。

やまと新聞

明治17(1884)年10月創刊の「警察新報」が19(1886)年10月に「やまと新聞」と改題された。当初は警察種などの社会記事などで庶民読者に歓迎され、「読売新聞」と並んでいわゆる「小新聞」の双璧であった。その後明治33(1900)年に経営が松下軍治に移った。松下は事業家・相場師として著名で、山形有朋・桂太郎の藩閥勢力と近かった。このため「やまと新聞」の論調も藩閥系に近かったが、新聞の性格としては三面記事を中心とする通俗紙の色彩が濃かった。
大正2(1913)年の憲政擁護運動では桂内閣を支持して群衆の襲撃対象となり、翌年のシーメンス事件では山本内閣倒閣運動の中心となった。
大正4(1915)年に松下が死去すると社運は衰退し、経営も紆余曲折を経た。昭和7年ごろから高畠素之などが入社し、国家社会主義の論陣をはる右翼思想新聞として存在を発揮した。昭和19(1944)年ごろ終刊。

読売新聞

明治7(1874)年11月、小安峻らにより創刊された。小型でルビ付き・口語文体の大衆新聞(いわゆる「小新聞」)として部数を伸ばし、間もなく東京最大部数紙となった。その後明治10年代後半から政治記事なども掲げる大新聞として再出発をはかった。また、明治期には文芸欄の充実に大きな特色があった新聞でもある。
明治末期には一時経営が行き詰まったが、大正時代に入って部数は徐々に伸張した。しかし新築社屋が関東大震災で焼失、復旧の立ち遅れで部数は急減して経営危機に陥った。
大正13(1924)年に正力松太郎が社長となり、ラジオ版・日曜版・東京各区版の創設など新機軸を打ち出したりして部数を急速に伸ばし、昭和13(1938)年には百万部を突破するに至った。
昭和17年には「報知新聞」を吸収して、一時題号を「読売報知」と改めた。

読売報知新聞
万朝報

明治25(1892)年11月、黒岩涙香により創刊された。「普通一般の多数民人」に時事を伝えることを謳ったこの創刊は、政論新聞から商業新聞へという流れのなかで大きな意味をもっている。1部1銭という破格の廉価や「鉄仮面」など涙香の通俗翻訳小説の連載、娯楽記事の充実などの新機軸を打ち出した。また、スキャンダル暴露も呼び物で、上流階級からは「赤新聞」とさげすまれながらも読者の大きな支持を獲得した。
初期には、内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦などを記者に擁して社会問題啓蒙に大きな役割を果たした。日露戦争に際しては当初非開戦論を強硬に主張したが、途中から開戦論に転じて幸徳らの退社を招いている。
大正2(1913)年の憲政擁護運動では桂内閣打倒を唱える中心的存在となり、翌年のシーメンス事件に伴う山本内閣倒閣運動にも参加した。その後をうけた大隈内閣に対しては支持を貫いたが、大隈の人気低下とともに読者を減らしたといわれる。
大正9(1920)年に涙香が死去すると急速に経営が悪化、さらに関東大震災が追い打ちをかけた。その後建て直しがはかられたが奏功せず、昭和15(1940)年9月に廃刊して「東京毎夕」と合併した。

横浜貿易新報

明治23(1890)年2月、横浜貿易商会により商況新聞として創刊された。その後貿易商会から独立し、明治37(1904)年には「横浜新報」と合併して一般紙となり(一時「貿易新報」の紙名となる)、大正末年まで部数を伸張させた。
昭和に入ってからは東京有力紙の進出などから不振となった。昭和17(1942)年新聞統合により県内各紙と合併して「神奈川新聞」となり現在にいたっている。

日本経済新聞

詳細不明
現在の「日本経済新聞」は「中外商業新報」の後身として昭和21(1946)年に改題されたものなので、関係がないのは明らかである。
「日本経済新聞」についてご存知の方は、附属図書館電子図書館係までお寄せいただけると大変ありがたく思います。

関西発行の新聞

大阪朝日新聞

明治12(1879)年、村山竜平らにより創刊された。当初の題号は「朝日新聞」で、22年1(1889)月に「東京朝日」創刊に伴い「大阪朝日新聞」となった。小型で大衆的ないわゆる「小新聞」として出発したが、明治20年ごろから大新聞への脱皮を果たしていった。日清戦争では号外を頻発して近畿一円に勢力を広げるなど、順調に部数を伸ばした。
明治31(1898)年には京阪神における独占特約をロイター通信と結び、また海外通信員の配置も積極的に進めている。日露戦争では「大阪毎日新聞」と号外戦を繰り広げ、また戦後の講和問題では非講和の急先鋒として激しい政府攻撃でたびたび発行停止処分となった。
大正期に入ると、第一次大戦と戦後のベルサイユ講和会議に多数の記者を欧州に派遣し、同様の態勢をとった「大阪毎日」とともに大きな成果をあげた。明治後期から大正期にかけては鳥居素川が編集の中心にあり、普通選挙促進運動や大戦末期の軍備縮小促進運動などのキャンペーンを盛んに行っている。しかし大正7(1918)年に米騒動の記事差止に端を発した寺内内閣糾弾運動の中でおきた筆禍事件(いわゆる「白虹事件」)は鳥居以下多くの記者の退社という結末を招き、打撃となった。
経営面では大正8年(1919)に株式会社化、部数も順調に伸張して大正末期には100万部をこえていたといわれる。昭和に入っても「大阪毎日」とは報道と販売宣伝の両面で激しい競争を繰り広げている。
昭和15(1940)年、東京・大阪・西部・名古屋の四本社体制が確立し、題号を「朝日新聞」に統一した。

大阪時事新報

明治38(1905)年3月、東京の「時事新報」が大阪に進出して創刊された。本家「時事新報」と同じく政治・経済記事を充実させ、また大阪初の夕刊発行、全国でもはじめて地方付録を本紙に組み込んだ地方版の発行するなど、盛んに積極策をとった。しかし部数は伸びず「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」の牙城を崩すにはいたらなかったといわれる。
大正12(1923)年には赤字補填に苦しんだ「時事新報」により分離独立させられることとなった。その後昭和5(1930)年には「神戸新聞」の傘下に入ったが10年には離脱、15(1940)年には「読売新聞」支配下に入った。昭和17(1942)年5月新聞統合で「夕刊大阪」と合併して「大阪新聞」となった。

大阪証券日報

詳細不明
「大阪証券日報」についてご存知の方は、附属図書館電子図書館係までお寄せいただけると大変ありがたく思います。

大阪新報

明治33(1900)年に「大阪商業新報」を改題して創刊された。原敬が一時社長をつとめるなど政友会の機関紙的存在であったが、大阪では「大阪朝日」「大阪毎日」に次ぐ位置を占めていた。
大正期にはやや不振となり、大正11(1922)年7月に「都新聞」の福田英助に委ねられて、翌12年2月「大阪都新聞」と改題した。

大阪毎日新聞

明治9(1876)年2月、「大阪日報」として創刊された。その後自由党の別働隊である日本立憲政党に買収され一時「日本立憲政党新聞」となるなどしたが、資金難から兼松房次郎らに譲渡され、明治21(1888)年11月「大阪毎日新聞」として再出発した。翌年から相談役に就任した本山彦一により輪転機導入や地方版発行など近代化がはかられた。
明治30年代に入ると、原敬、小松原英太郎を次いで36(1903)年からは本山が社長に就任(昭和7年まで)、「大阪朝日新聞」との二大紙体制はこの時期に確立された。明治44(1911)年には「東京日日新聞」の経営を譲渡され、東西での新聞発行となった。
大正期に入って、第一次大戦と戦後のベルサイユ講和会議には多数の記者を欧州に派遣し、同様の態勢をとった「大阪朝日」とともに、大きな成果をあげた。大正7(1918)年には株式会社組織となり、大正末期には部数も100万部を突破していたといわれる。昭和に入っても「大阪朝日」とは報道と販売宣伝の両面で激しい競争を繰り広げた。
昭和18(1943)年1月、「東京日日」と題号を統一し「毎日新聞」となった。

英文毎日
関西日報

大正3(1914)年11月、吉弘茂義により「大阪通信」を改題して創刊された。吉弘は「大阪日日新聞」「大阪日報」の両紙も発行していたが、筆禍事件で朝刊紙「大阪日報」が廃刊したのを受けての創刊である。

大正日日新聞

大正8(1919)年11月、鳥居素川を主筆として大阪で創刊された。一次大戦で鉄成金となった勝本忠兵衛が大株主であった。鳥居は「大阪朝日新聞」の大物記者であったが、大正7(1918)年にいわゆる「白虹事件」によって退社していた。
紙面編集は充実していたが、「大阪朝日」「大阪毎日」両紙に営業・販売面で厳しい妨害にあい、また経営陣内に対立があいつぎ、最後には鳥居も退社するに及んで、創刊わずか8ヶ月の大正9(1920)年7月に解散に追い込まれた。
なお解散の際、紙名は大本教団に売却され、大本教の機関紙となった。さらに大正12(1923)年から米田誠夫に買収されて紙名は存続するが、鳥居時代との関係はほとんどない。

帝国新聞,大阪日日新聞

明治44(1911)年、梅原亀七により大阪に「帝国新聞」が創刊された。朝夕二回発行の大新聞であったが、わずか1年あまりで廃刊してしまった。
翌大正元(1912)年8月、吉弘茂義に買収されて「大阪日日新聞」が改題創刊された。吉弘は朝刊紙「大阪日報」の経営者で、「大阪日日」は夕刊紙として発行された。

日本工業新聞,産業経済新聞

昭和8(1933)年6月、前田久吉により大阪で「日本工業新聞」が創刊された。
昭和17(1942)年10月、新聞統合により愛知以西の産業経済関係新聞を吸収合併して「産業経済新聞」となる。戦時中は東京の「日本産業経済」(「日本経済新聞」の前身)と東西を二分する経済新聞であった。
なお、「産業経済新聞」は戦後「産経」となったが、「日本工業新聞」も昭和30年に復刊し旧号数を継承している。

神戸新聞

明治31(1898)年2月、神戸の財閥川崎家により創刊された。従来川崎家は「神戸又新日報」を援助してきたが、又新が川崎造船所を攻撃したので、対抗して「神戸新聞」を設立させたといわれる。東京の「国民新聞」と比較的密接な関係にあり、しばしば記者を迎えている。
明治末に進藤信義が主幹となると地方版の整備や各種事業の実施で部数を伸ばし、「又新日報」をしのぐに至った。
大正7(1918)年には米騒動で社屋を焼かれたが経営は揺るがず、大正9(1920)年には株式会社化された。社長となった進藤は「京都日日新聞」「大阪時事新報」両紙の経営権を相次いで手中にし、一時は「三都合同」構想を進めた。
紙名を保ったまま現在にいたっている。

神戸又新日報

明治17(1884)年5月、三木善八らにより創刊された。その後川崎造船所の手に移り、造船所出身の渡辺尚が経営にあたったが、日清日露戦争で部数は飛躍的に増加した。神戸新聞と激しく競争した。大正7年の川崎造船所労働争議のときは神戸新聞をピンチにおいつめたといわれる。
しかし大正末期には経営が苦しくなり、昭和に入ると経営者がしばしば交代、紙面改革も進められたが成功せず、昭和12(1937)年10月より夕刊紙となり、昭和14(1939)年6月に廃刊。

神戸商大新聞
京都日出新聞

明治18(1885)年4月、浜岡光哲により「日出新聞」として京都に創刊され、明治30(1897)年7月「京都日出新聞」となる。大衆的な傍訓絵入新聞として出発し、大正期まで部数を順調に伸張した。
昭和に入ると、「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」の進出と「京都日日新聞」の台頭で徐々に不振となる。昭和17(1942)年4月、新聞統合により「京都日日新聞」と合併して「京都新聞」となり、現在にいたっている。

その他地方の新聞

北海タイムス

明治34(1901)年9月に「北海道毎日新聞」「北門新報」「北海時事」を統合して札幌で創刊された。統合は政友会主導で行われ、政友会の機関紙という色彩が濃かった。日露戦争を契機に部数を伸張し、さらに大正後半から昭和にかけては、道内全域に勢力を伸張した。
昭和17(1942)年11月、新聞統合で道内11紙が統合され「北海道新聞」となり、現在にいたっている。
なお、戦後創刊の「北海タイムス」とはつながりはない。

河北新報

明治30(1897)年1月、一力健治郎によって仙台に創刊された。改進党系の「東北日報」を譲渡されての出発であったが、当時としては珍しく政党色の薄い地方紙として発展した。農業経営近代化の啓蒙記事などに特色があった。
大正期には東北六県に通信網を拡大し、大正末期には10万部を突破するなど確固たる地位を築いた。紙名を保ったまま現在にいたっている。

北陸新聞

明治40(1907)年1月、真宗系の「政教新聞」から宗教色を抜く形で金沢に改題発足した。後に「石川毎日新聞」と合併して「北陸毎日新聞」となり、さらに「北国新聞」と統合され昭和17(1942)年には「北国毎日新聞(現在の北国新聞)」となった。

新愛知

明治21(1888)年7月、大島宇吉により名古屋で創刊された。大島はもともと自由党の闘士で、当初は自由党系、明治33(1900)年に政友会ができてからは政友会系の新聞となった。
名古屋においては明治39(1906)年に「名古屋新聞」(憲政会系)が創刊され、政治的立場を異にする二紙は紙面・販売のみならず、実際の政治的社会的運動にも及ぶ激しい競争を繰り広げた。また大正末年には「大阪毎日」「大阪朝日」の進出攻勢があったが、昭和15年に死去するまで50年以上にわたる大島の経営のもと、「新愛知」はその地位を保ち、中部地方全域に販路を広げた。また、昭和8年には「国民新聞」を買収して東京進出を果たしている。
昭和17(1942)年9月新聞統合で「名古屋新聞」と合併して「中部日本新聞」となり、現在にいたっている。

福岡日日新聞

明治13(1880)年4月、福岡初の日刊紙として創刊された(号数は前身の11年創刊「めざまし新聞」「筑紫新報」を継承)。自由党・政友会色が強く、「北海タイムス」「新愛知」とならんで政友会系地方紙の中心的存在であった。経営面では、明治40年代以降「佐賀日日」「熊本日日」など北部九州全域に系統紙を発行している。
自由主義的・反ファシズム的な論調が目立つのも特色であり、昭和に入って海軍軍縮問題や五・一五事件、二・二六事件批判で積極的論陣を張り、軍部右翼による不買運動に遭ったこともある。
昭和17(1942)年8月、新聞統合で「九州日報」と合併して「西日本新聞」となり、現在にいたっている。

宮崎新聞

大正5(1916)年9月、「鹿児島新聞」の切替版として創刊された。昭和9(1934)年4月に地元資本の「宮崎時事新聞」と合併した(紙名は「宮崎新聞」を継承したが、実体は「宮崎時事」による吸収)。昭和15(1940)年新聞統合により他紙と合併して「日向日日新聞」となる。

九州帝国大学新聞
沖縄実業時報

大正3(1914)年、泰蔵吉により創刊された(沖縄県史 第5巻「文化 上」 1975による)

外地・旧植民地発行の新聞

樺太日日新聞

明治41(1908)年8月、財部熊二郎により豊原(現ユジノ・サハリンスク)に創刊された。樺太庁の公布式搭載新聞であり、大正14(1925)年以降は樺太庁報を別冊附録としていた。
昭和17(1942)年に「樺太時事」など4紙の合併で「樺太新聞」となる。敗戦ののちソ連軍の発行停止命令により廃刊。

京城日報

明治39(1906)年9月、韓国統監伊藤博文によって創刊された。統監府の機関紙であり、明治43(1910)年の日韓併合後は朝鮮総督府機関紙となった。初期には「国民新聞」の徳富蘇峰が監督をつとめ、「国民」系の社長によって運営されていた。
論調においても、組織・財政においても、総督府との関係は非常に密接であった。
昭和20(1945)年10月、敗戦によって米軍に接収され廃刊した。

台湾新報

詳細不明。
「台湾新報」の紙名は、「台湾日日新報」の前身紙であったもの、昭和19年に創刊されたものがあるが、いずれも年代が合致しない。
「台湾新報」についてご存知の方は、附属図書館電子図書館係までお寄せいただけると大変ありがたく思います。

台湾新聞

明治34(1901)年5月、「台中毎日新聞」として台中に創刊された。その後「中部台湾日報」の紙名を経て、40(1907)年10月より「台湾新聞」と改題した。

台湾日日新報(新聞)

明治31(1898)年5月、「台湾新聞」「台湾日報」の2紙を合併して、台北に創刊された。合併は台湾総督府の主導によるもので、以後は総督府の機関紙的存在となり、総督府の府報などを附録としていた。漢族系住民への広報のために中国文ページが設けられていた。台湾では最大の部数を持つ新聞であった。
昭和19(1944)年4月、島内の日刊紙が統合され「台湾新報」となった。終戦後は漢族系スタッフが発行を継続し、「台湾新生報」に継承された。

大陸新報

昭和14(1939)年1月、上海で創刊された。

日華公論
奉天新聞

大正6(1917)年9月、佐藤善雄により奉天に創刊された。

満州日報,満州日日新聞

明治40(1907)年10月、星野錫により「満州日日新聞」として大連に創刊された。満鉄の機関紙的存在であった。昭和2(1927)年11月「遼東新報」を合併して「満州日報」と改題したが、昭和10(1935)年8月「満州日日新聞」に復題した。昭和13(1938)年に奉天に本社を移転、奉天・大連の同時発行で大連版は「大連日日新聞」となった。
昭和19(1944)年5月、「満州新聞」と合併して「満州日報」となる。

支那新聞翻訳通信,支那通信,支那新報

中国の新聞記事を翻訳したもので、活字ではなく手書き文字である。採録紙を明記しない記事もある。詳細は不明であるが、新聞記事文庫収載記事には「東亜同文会 支那新聞翻訳通信」の印があり、東亜同文会の事業であったと思われる。

京津日日新聞

大正6(1917)年10月、天津で創刊された。天津を本社とし、北京に支局があった。京津地方の邦字新聞では最大のものであった。

新聞名不明