神戸というまちは、多くの異邦人たちが、生活と夢をもち寄って、くらしていたところである。開港のときから、中国人もこのまちにやってきた。多くのエトランゼとおなじように、彼らは故国のなにかを、この地に残そうとしたはずだ。とくにこの三、四十年以前は交通の事情もあって、そうかんたんに往来できなかった。移り住んだ土地と、故国との距離は、精神的にも実質的にも、今日の比ではないであろう。

明治時代といえば、中国では激動の清末にあたる。そして大正元年は、中国では革命によって、まがりなりにも共和国となった「民国元年」でもあったのだ。

さまざまな考えをもった中国人が、革命に賛成したり、保皇に心を傾けたりして、それでもこの地で生活しなければならなかった。

中国福建の金門島出身の王敬祥は、そんな祖国の揺れ動いた時代に、海ひとつへだてた隣国にやって来た人である。心には故国の大衆がしあわせなることを願っていたが、その事業に専念できる身ではなかった。

たまたま革命に一身を捧げた人たち、とくに孫文と知り合ったことから、歴史の頁にその名をとどめることになった。孫文も王敬祥のような職業革命家でない、いわばボランティアの市民のほうが、安心してものを頼むことができる面もあったようだ。

王家に残された『王敬祥文書』は、神戸在住の一中国人が、利害得失を超えて、故国のためになにかしようとした、純粋な心の記録である。たんに損得を無視したのではなく、革命のために私財をつぎこんだ形跡もみられる。孫文はかつて「華僑は革命の母」と言ったが、そのことばのあきらかな例証ともいえるだろう。

孫文は揮毫を頼まれると、よく「博愛」とかいた。王敬祥たちは祖国愛から行動したが、孫文は究極の目標を忘れてはならぬと、つねに思っていたのにちがいない。王敬祥と孫文のやりとりは、その場に立ち会うことはできないが、おそらく愛国のスローガンをこえて、人類愛をめざすことなどが語り合われたであろう。

なによりも王敬祥文書は、彼に宛てられたものが多い。それにたいして、華僑の一先輩がどのように応じたかは、想像するほかない。

すでに歴史的文書となっているが、その裏に永遠の鼓動がききとれるのではあるまいか。

王柏林・松本武彦編『王敬祥関係文書目録』非売品,1996年8月,1頁 より転載