渋谷文庫


「渋谷文庫」は、生産技術協会(昭和21年発足)において、渋谷隆太郎氏により蒐集された旧海軍技術資料です。同資料の一部は、日本舶用機関学会舶用機関誌編集委員会に寄贈され、神戸商船大学(現神戸大学海事科学部)にて保管されてきました。

平成六年(1994)三月、神戸商船大学に正式に移管され、「渋谷文庫」として成立しました。「臨機調事件」に関する原本資料など、貴重なオリジナルの旧海軍技術資料をはじめとして、約4,400点を所蔵しています。

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解説-渋谷文庫について-

文献)『渋谷文庫目録-海軍造機技術資料-』渋谷文庫調査委員会
参照)
臨機調事件について
渋谷隆太郎氏略歴
渋谷文庫目録

海軍造機技術自立過程と渋谷隆太郎氏

軍艦だけでなく造船所までまるごと輸入で出発した日本の海軍だが、人材養成を中心課題としつつ技術の自立に努めた結果、海軍は早くも明治時代に自主開発の宮原ボイラを主力艦に独占的に採用した時期がある。その宮原二郎氏は蒸気タービンの採用にも積極的で、1906(明治39)年、艦政本部第四部長だった同氏の決断により巡洋艦伊吹の計画を変更し、軍艦用として当時世界最大のタービンを米国フォアリバー会社に注文し、翌年9月に艦内に搭載した。

1912(大正1)年、海軍は宮原ボイラからイ号艦本式ボイラに転換した。以来、外国産ボイラの輸入、搭載もありはしたが、渋谷隆太郎氏がその技術者としての経歴を開始された時には、ボイラ技術とレシプロ蒸気機関技術を中核とする造機技術において海軍はほぼ自立を達成し、国内で未経験の蒸気タービンについても、先進諸国からの情報を大筋で正確に判断していた。渋谷隆太郎氏自身が「旧海軍技術資料」(生産技術協会、1970)の第2分冊(この渋谷文庫に収納、50-002)、P.35に次のように書いておられる。

「私は大正9(1920)年に旧海軍大学校専科学生として、蒸気推進機関を専修した際、当時米海軍の巡洋戦艦レキシントン(電気推進)と同一馬力の蒸気タービン装置の設計を課せられ1カ年かかって機関室の配備図を作成した。艦本五部長の視察があって、同年12月1日から、艦本五部に勤務することとなった。当時主力艦の建造とともに、巡洋艦駆逐艦等も多数建造中であった。巡洋艦、駆逐艦のタービンに故障頻発、その渦中に巻き込まれ非常に鍛え上げられた(下略)」。

この引用文中にも片鱗が出ているが、当時世界各国で起こっていたタービンの故障は大変なものだった。一般に真の革新的技術はトラブルを克服しつつ発達するのであり、蒸気タービンも例外ではあり得なかった。旧海軍タービンの1、2号機は当時の最有カメーカからの輸入機ではあったが、それらは当時の世界最大機だったから当然に頻々と故障した。ただしそれらを使いこなすだけの技術力を旧海軍技術陣はすでに備えており、その上にカーチスタービンとパーソンスタービンの製造権取得による技術修得を積み重ねたのである。

上記の時間的経過によれば、旧海軍のタービン技術自立過程の重要部分と渋谷氏の技術者としての経歴は丁度重なっている。旧海軍は、大正4(1915)年度計画の二等駆逐艦桃と樫(2機2軸、16700馬力)に艦政本部独自設計の単シリンダ直結タービンを装備するまでになっていた。1923年にカーチスタービン、1928年にパーソンスタービンとの製造権契約期限の到来とともに契約を打ち切り、外国特許から自立した艦本式タービンが名実ともに成立した。

この技術開発チームの中枢に渋谷隆太郎氏は1920年に艦政本部員として参加され、以来タービン技術の自立に大きく貢献され、1944年11月以降終戦までは艦政本部長の要職にあり、戦後も1973年4月8日に逝去される直前まで、日本技術の発展のために尽力された。

艦本式ボイラ、タービンを中心とした旧海軍の造機技術は艦本式タービンの成立期以後順調に発達し、1940年ころ竣工の主力艦では、1機2缶、1軸1機4万馬力、4軸、タービン入口で30気圧350℃程度であった。内燃機関でも潜水艦用に艦本式が開発、実用され、また、大和、武蔵に搭載を目標に開発された大型複動ディーゼル機関は、大和、武蔵には不採用となったが、次期計画戦艦用としての実用試験目的で水上機母艦日進(3機1軸、2軸で47000馬力)に採用されている。旧海軍の機関は、内燃機関、補機、軸系、プロペラ、電気、計装、等も含めて、1941年以来4ヵ年に亙る戦争中を通じて、機関の故障により作戦に支障を来したことは殆どない好成績をあげている。

渋谷文庫の成立

原資料の集積

終戦と同時に、恐らく日本政府機関全体に対して各種書類の焼却命令が出たようだが、旧海軍においても多くの図書が焼かれてしまった。さらに進駐軍総司令部から日本政府に対して戦時中の資料の提出命令が出たから、めぼしい技術資料は殆ど根こそぎ無くなった筈である。

その環境の中で、旧海軍の部局長会議で、完全なものにならなくてもよいから技術資料をできるだけ集積、調査、分析する調査事業を始めることが決定され、臨時軍事費50万円を基金として第一段の調査が始まった。ところが通貨の封鎖と新円への切り替え、旧海軍の解散などの事情により、当初計画どおりの実行は不可能となった。

そこでとりあえず数百人の担当者を指名し、主として各自の記憶を中心とする原稿を昭和21年6月末期限で集めることとし、同時にこの調査事業の継続を当面の目的とする組織の発足に努め、昭和21(1946)年3月9日、(社)生産技術協会が商工省の認可法人として発足した。予定期限の昭和21年6月末には大部分の原稿が集まった。その後も力を尽くしてアメリカ海軍資料、個人的に所有している旧海軍資料、その他各種技術文献資料の収集につとめ、原紙を作成して所要の向きに供給し得るように整備したものだけで2000件以上に達したという。それらを素材として出版された本が、前記した5冊の「旧海軍技術資料」である。本書は5冊あわせて「第1編」となっているから、出版当時は引き続いて第2編以下を出版されたいご希望であったと察せられる。

渋谷隆太郎氏は昭和48(1973)年4月8日、86才で逝去されているので、「旧海軍技術資料」が出版されたときにはすでに83才の高齢であった。生産技術協会を渋谷氏とともに運営してきた同志中からも逝去者は相次いだであろうし、ご自身の年令についても慎重に考慮の結果、渋谷氏は自らの手で同協会を円満に解散する決意をされ、あわせて生産技術協会収集資料の散逸防止を企図された。そのとき氏は、氏自身が発起人のひとりとして創立総会で祝辞を述べられた日本舶用機関学会の中で、舶用機関史編集委員会が活発に活動していることを想起されたようで、協会収集資料の一部(しかし、おそらくその主要部分)が日本舶用機関学会舶用機関史編集委員会に寄贈されることになった。

寄贈を受けた上記委員会の委員に神戸商船大学教授の向原誠也、坂本賢三の両氏がおられたご縁により、同資料は神戸商船大学内に有志教官の好意で大切に仮保管されてきた。即ち、目録がなくて内容の詳細は不明とされていたので、同大学図書館に正式に受け入れてもらうことはできなかったし、なにぶん量が膨大で、資金の乏しい日本舶用機関学会舶用機関史編集委員会が目録作成を企図することは不可能だから、有志教官による仮保管となったのである。東京からロッカーとともに到着した荷物はまず海事参考館内でロッカーに整理、収納されたが、20年もの長期の間に保管場所が転々することはやむを得なかった。

目録作成事業の開始

平成3(1991)年秋のある日、単なる偶然とは思えない奇跡的事象があらわれた。たまたま上記仮保管資料の現状確認に神戸商船大学を訪れた前記機関史編集委員会委員長石谷清幹と武田康生が、かねてから聞いていた臨機調事件の噂をしながらひとつの引き出しをあけて書類を取り出してみたところ、臨機調事件調査報告書の原本が、委員長山本五十六の認印の朱肉の跡も生々しい状態で出てきたのである。

両名は強い衝撃を受け、石谷は舶用機関学会に、武田は川崎重工顧問の吉田学にこのことを報告し、吉田は(財)海軍歴史保存会(昭和60年7月設立)に連絡した。それが、同保存会が出版を企画していた歴史原稿の最終締め切り日である平成4(1992)年6月にあと7か月余りという、ぎりぎりの日であった。

目録作成の予算を立てるには、対象とする資料群の内容が、精密ではなくても正確に分かっている必要があるが、当初は全く見当がついていなかったから、その確認作業から始めねばならない。海軍歴史保存会では、かねてから渋谷隆太郎氏が生産技術協会で収集された資料群の行方について関心をもっておられたが、ともかく緊急に事業計画と予算を作成せねばならず、それにも組織と予算が必要である。とりあえず少規模な同志的組織として渋谷文庫調査委員会が発足し、準備作業を開始した。その結果、平成4(1992)年2月14日に日本舶用機関学会舶用機関史編集委員会渋谷文庫調査分科会設立準備会が開催され、海軍歴史保存会提供資金により、同分科会は3月6日の第1回会合以来、活動を開始した。

渋谷文庫内容のあらまし

この渋谷文庫には、性格を異にする次の4種類の資料が含まれている。

I. 旧海軍作成の技術資料
II. 旧海軍作成のその他資料
III. 技術資料であって旧海軍以外の作成によるもの
IV. その他資料であって旧海軍以外の作成によるもの

このI.中の資料の一例としては、もと艦政本部長、海軍中将杉政人氏が、艦政本部長退任に当たり、渋谷氏に一括して残された資料と思われるものの一部(しかし恐らく主要部分)があるが、正確なことは今後の研究に待たねばならない。この中には、呉工廠の製鋼技術や工場管理上の生データが含まれているようだ。

渋谷氏が主宰された生産技術協会が何らかの必要に応えるべく作成された協会保有資料の目録(前記した生技協目録、78-013)によれば、その目録作成当時には、造船、砲熕、電気兵器、航海兵器等の資料も相当量存在したものと察せられるが、その行方は不明である。また本目録作成作業の開始期に、一部委員は海軍省軍務局編:帝国海軍機関史の原本、舶用タービン故障統計の原本等が出て来るのではないかと期待したが、それらは結局出て来なった。