「臨機調事件」とは旧海軍を揺るがした大問題で、本文庫中の「旧海軍技術資料」中でも渋谷氏自身の記述があるが、詳細な故に大局を掴み難いので、便宜上ここで簡単に紹介しておく。

臨機調事件とは、もともと艦本式タービンが旧海軍の伝統の中で、諸先輩、なかんづく渋谷の卓越した能力、人柄と非常な努力により、国産技術として自立していたればこそ起きたことである。それは結果的には、艦本式タービンの実艦による徹底的信頼性確認実験である。しかし直接的には、艦本式タービンの翼車設計ミスによる翼車振動で翼が折損するとの誤認に基づいて、主力艦から水雷艦までの全艦艇の大部分のタービンの改造を決定したもので、それを招来した責任者として、渋谷氏は他の数名とともに、懲罰を受けられた。

艦本式タービンは制定以来の自立技術として順調に発達し、多少の故障は免れ得なかったものの、性能、信頼性ともに優秀であった。しかし水雷艦友鶴の転覆と第四艦隊事件(1935年9月、演習中の第四艦隊が台風に遭遇し、新鋭の特型駆逐艦2隻の艦首部が波浪のために切断、流失した事件)の対策として既定計画が見直され、その一環としてタービンの設計にも変更が加えられると、その改定設計タービンに、久しく鳴りをひそめていたタービン翼折損事故が続出し、船体部分の重大事故で技術陣全体の信頼が揺らいでいた折りでもあり、これでは軍艦は走れないと、大問題になった。

すなわち、1937年8月、新造公試運転中の駆逐艦朝潮にタービン翼折損事故発生、引き続き同型タービン搭載の駆逐艦夏雲、大潮、荒潮、満潮、山雲にタービン翼折損事故が続出し、艦艇推進機関全般の信頼性に疑問があるとされ、1938年1月19日臨時機関調査委員会(委員長は海軍次官山本五十六)が設けられた。渋谷氏は被告の立場にあるとの理由でこの委員会から排除されただけでなく、委員が個人的に渋谷氏に意見を聴くことも固く禁じられた。

委員会はほぼ一年で前記翼車振動説の結論を出し、海軍大臣に答申した。ところがその実施予算編成段階で、軍務局第三課長だった久保田芳雄大佐(当時)の強硬な主張により、直ちには改造に着手せず、各種艦艇にわたる広範な実艦実験を先行させることになった。旧海軍のこのフレキシビリティは実に立派である。翼車振動説による危険速度で平時の5年分、戦時の1年分相当時間の高速実験の結果、全艦無事故であった。

これで翼車振動説の誤りが実証されたので、真の原因の探求が開始された。実艦実験と基礎的実験の結果、真因が翼の2節振動であることが世界ではじめて実証され、翼のみの僅かな設計変更で事態は収拾され、渋谷氏らの懲罰は撤回された。以上が臨機調事件のあらましである。

官庁に限らず、一般に巨大組織では硬直した形式的官僚的論理が優先されやすい。ことに省をあげての委員会結論が誤りであったと公認されることなどほとんど不可能と思える官庁組織の中で、さらに進んで、懲罰が撤回され、その上、当時海軍将校だった渋谷氏が1940年に中将、1944年11月艦政本部長にまで昇進されたことは、旧海軍、特にその技術陣の体質を考える上で、極めて興味深い。

臨機調事件の経験は現代日本の技術体制に十分に取り入れらるべきものである。真実の発見よりもメンツや行きがかりを重視して円満な収拾を旨とするようでは、技術の発展は歪むだろう。