沓水家文書


近江国坂田郡長浜東御堂前町沓水家文書解題

地域

沓水家文書は近江国坂田郡東御堂前町の沓水家の文書である。

東御堂前町は現在の長浜市元浜町にあたり、元禄八年大洞弁天寄進帳では家数28、男50・女53で、町代・横目が置かれ、荒物屋2・畳屋・禅門・檜物屋・足袋屋・米屋・小間物屋がおり、貸家2があったとされる(平凡社『日本歴史地名大系』)。

文書群

沓水家文書は総130点。宝永6年(1709)から明治25年(1892)までの文書があり、幕末・明治初期の文書が多い。なお、沓水家を名乗るのは明治以後であり、江戸時代には木綿屋の屋号を用いていた。

『長浜市史』4(長浜市役所、2000年)によれば、長浜尋常高等小学校の敷地の一部を寄附した人物として沓水文治郎が挙げられているほか、第二十一国立銀行の設立発起人の一人に沓水文内が、さらに第一次世界大戦の影響による米価騰貴によって多くの生活困窮者が長浜町でも発生したとき米の廉売と困窮者救済を徹底するため選出された協議委員として沓水文次郎、沓水清治郎の名がみえる。このように沓水家文書にも名が現れる人物が近代の長浜町政において大きな役割を果たしていたことが確認できる。

また『滋賀縣漁業史』上(資料)に、文禄慶長の役に際して肥前国名護屋城にあった豊臣秀吉に長浜惣中として鮒鮨を見舞いとして贈ったことに対する礼状(朱印状)が「長浜市沓水家文書」として掲載されている。同史料は神戸大学附属図書館所蔵沓水家文書には含まれていないが、ほんらい同一の文書群だった可能性もある。こうした文書を所持していた沓水家は近世においても長浜町屈指の旧家だった蓋然性は高い。

沓水家文書の来歴については、昭和39年(1964)に小林秀雄氏から神戸大学附属図書館に納入されたことがわかるが(『図書受入原簿』)、詳しい事情は不明である。

史料紹介

沓水家文書には金銭の貸し付けに関する文書が多くみられる。江戸時代には彦根藩にも金銭の貸し付けを行っていた(9-12)。

また、明治6年(1873)、当時88歳であった沓水文内が家業の御免を県令に依頼している史料がある(3)。このような御免を依頼したのは、4年前に藤兵衛を亡くしたためであるという。ただし、沓水家文書のなかには沓水家の家業に関する史料は乏しく、詳細は不明である。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)

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