古文書


神戸大学社会系図書館に「古文書」という古文書群が保存されている。総点数は1876点である。「古文書」に分類されている文書は雑多な文書群が集められたものである。来歴は不明ながら、「神戸経済大学施設拡充委員会寄贈」という印が押してあるものもあった。神戸経済大学とは神戸大学の前身であり、昭和19年(1944)から昭和24年(1949)までその名称が使われていた。戦前戦後を通じて施設拡充のために神戸大学に古文書が集積され、そのなかで古文書点数の少ないものを中心に「古文書」として一括して集められたのだろう。すべての文書の来歴がそうであるとはいえないが、古文書を購入して集められたのだろう。

「古文書」はすでに一度整理されたものとおぼしく、古文書の内容ごとに並び替えられている。おおまかな分類をしてみると、定書・明細帳・上申書・皆済目録・割付帳・宗旨人別帳・五人組帳・戸籍・検地帳・売券・借用証文・願上書・兵庫商売・争論という順序で並んでいる。しかし、後半部分に差しかかるにつれてこの分類も乱れており、錯乱している。なお、図書館No,の部分が「番号なし」としているのは、今回の史料整理にあたって「古文書」の分類に追加したものである。(文書No,341以降の文書が図書館No,が番号なしとなっている。)

雑多な古文書の集まりである「古文書」は、地域を指標としてさらにいくつかの文書群に分類できる。おおきく分けると、兵庫津の開港や商売に関する文書や摂津国兎原郡の篠原村関係文書・若林家文書、同国同郡の光明寺文書、播磨国宍粟郡の安黒村関係文書、同国神東群の屋形村関係文書、同国多可郡の市原村関係文書、但馬国朝来郡の伊由細工関係文書、同国同郡の寺内村関係文書、同国気多郡田ノ口村関係文書、淡路国洲本の鍋屋(奥野)文書などに分類できる。こうしてみてみると、「古文書」では兵庫県内の文書が中心になっている。一方で、兵庫県外の文書も収蔵されており、山城国乙訓郡の西土川村や今里村の用水関係文書、近江国犬上郡彦根の足袋屋奉公人関係の文書などがある。しかしこれらの文書も単独で分類できるほどの点数はなく、点数の少ない文書群を寄せ集めて「古文書」の分類が形成されている。また、数点しか収蔵されていない村の文書も多くある。「古文書」に収録されている文書は、点数やその内容からみても、もともとあった文書群の中の一部が購入されて神戸大学に収蔵されたものであろうと考えられる。

以下では比較的点数も多い文書群(神戸開港関係文書、篠原村関係文書、慶隆寺関係文書、若林氏関係文書、光明寺関係文書、安黒村関係文書、屋形村関係文書、鍋屋文書)を紹介していく。
神戸の開港に関する文書
摂津国兎原郡の篠原村関係文書・若林家文書・慶隆寺文書
同国同郡の光明寺文書
播磨国宍粟郡の安黒村関係文書
同国神東群の屋形村関係文書
淡路国洲本の鍋屋(奥野家)文書

神戸の開港に関する文書

地域

慶応三年(1867)の兵庫開港に伴い、神戸に外国人居留地が設けられた。同年幕府はイギリス・フランス・アメリカ・オランダ四国代表との交渉の末、兵庫・大坂外国人居留地設定を取決めたが、その地は生田川西岸の神戸・二茶屋・走水の三村域で山陽道より南の海岸寄りの田畑・空地が選定された。同年5月兵庫開港の勅許が出され外国奉行柴田剛中が兵庫奉行を兼任し、二茶屋村善福寺を宿所として開港関係の諸施設と現地の外交諸務をつかさどった。居留地の造成や海岸の石垣築造工事は入札を経て着工された。開港日の12月7日にはようやく運上所(税関)と付属倉庫だけが完成した。開港後の慶応4年1月、内戦により幕府勢が兵庫を撤退。直後に神戸事件が起き造成中の居留地が外国軍に占領された。こののちは新政権が条約引継ぎなどの外交交渉を運上所で行った。一時中断していた居留地の造成は新政権のもとで進められ、引続き生田川・宇治川間であれば居留地外でも土地・家屋を借用できるとした。同年6月改めて大坂兵庫外国人居留地約定書を結び、日本側の造成した貸地は競売によって値を決める、借地人の納める地税から一定額を日本側が控除したあとは居留地の道路・溝の整備、街の清掃、街路灯などの維持費とする、居留地内行政は日本役人(知事)・各国領事・外国人住民から選挙された行事三人が相談(居留地会議)して行うなどと決められた。区画割はイギリス人土木技師ハートの設計により、広い計画的な街路と一区平均300坪を超える整然と並ぶ街区が造成された。明治元年(1686)の36区画を含め、同6年までに126区画の永代借地権の競売が行われた。下水も煉瓦造の埋設下水道に改められ、街灯のともる並木の歩道とあいまって、東洋一とも評される景観をみせるようになった。居留地会議は事務執行の行事局を設け、ポリス(居留地警察)・消防隊を置き、居留地内では条約上の治外法権を背景に事実上独自の行政的組織を維持した。その後条約改正で明治32年(1899)治外法権撤廃により居留地の警察は県に、その他の行政諸務は神戸市に移された。(平凡社『日本歴史地名大系』による)

文書群

神戸に関する文書は計70点で、「乍恐商法書」(No,202)、「売込値段取調帳」(No,203)など商業や開港に関するものがある。そのほかにもNo,300には外国との商売や港の運営について外務局や大蔵省などからの書状、外国人と日本人の暴行事件についての訴状に関するもの、魔術ショーへの招待状などが残っている。

神戸の開港についての文書は、「古文書」とは別に「神戸開港文書」として分類され、データベースも作られている。しかし、もともと「神戸開港文書」は「古文書」の中に含まれており、その後「神戸開港文書」として「古文書」から別置された。よって「古文書」に残る神戸開港に関する文書は「神戸開港文書」別置の際に、何らかの理由で「古文書」に残されたものであると考えられる。

文書紹介

No,337の戎屋作兵衛とギリンガムの暴行事件について紹介する。

当事者であるギリンガムと戎屋作兵衛については、ギリンガムは英国のヲールト商会の人物であり、戎屋作兵衛は神戸の中町に住み、外国人に対して土地や家を貸していた。暴行事件が起きたのは明治3年

(1870)5月8日で、ギリンガムが作兵衛を殴り、倒れた作兵衛を押さえ込んだという。作兵衛の主張によればアバラ骨を厳しく蹴り上げられたといい、5月8日付の容体書(No,337-6)によれば肋骨が腫起していたという。

暴行事件のきっかけは、家貸に関わるトラブルであった。問題となった家はもともと米国人のシエツチボーに貸していた。貸したのは家だけではなく、家附物として襖障子なども一緒に貸していたのである。この家附物の扱いが問題となるのである。その後、シエツチボーが横浜へ引越しすることになったのだが、シエツチボーは英国人ケキリフンに又貸ししてしまう。ケキリフンは家附物をシエツチボーから30両で買ったとして意見が食い違い、作兵衛がその掛け合いに行ったところでこの暴行事件が起きてしまったのである。

6月8日に英国士舘にて取調べが行われ、ギリンガムは事件当時作兵衛が酒にて酩酊していたこと、作兵衛が無礼なことを申したこと、大怪我をするほど暴行していないことを主張した。そしてギリンガムには英国法通りに処罰が下されることになり、女王へ洋銀5枚を罰金として支払うことになった。

この暴行の原因は日本と外国との理解不足といえる。外国人が家附物を正確に理解できていたのかわからないが、文化的な違いがこの暴行事件を生み出したといえる。おそらくこのようなトラブルは多くあっただろう。また、裁決については、領事裁判権により英国が裁決している。ギリンガムは英国女王への罰金に処せられるが、暴行の被害を受けた作兵衛には何の保障もされていないとともに、事件の原因となった家附物の問題は解決されていないままとなるなどしておりことからも、この裁決によってすべてが解決したわけではないだろう。今後どうなったかは史料がないのでわからない。

次にNo,300-5の灯明台設置についての書状について紹介する。

港には灯台が必要であるが、神戸・大坂港の灯台設置について伊藤博文がイギリス公使に掛け合って、近々灯台の造築がされることが決まっている。神戸港の設置場所は台場であり、その周辺の測量などを行うよう通達している。灯台設置の責任者は器械方のブランデルという人物で、器械方御雇頭取のブラントンの申し立てによって決まっている。ブラントンとは英国の灯台技師で、明治政府が雇い入れた外国人の第一号であった。ブラントンは当時横浜の外国人居留地の設計・整備に携わっており、よってブラントンの助手であったブランデルが神戸・大坂港の灯台設置の責任者となったのだろう。ブランデルも長崎から神戸・大坂に来るとあり、長崎方面でなにかの造築を請け負っていたと考えられ、広範囲における活動がみてとれる。

このことにより作られたのが和田岬の灯台である。和田岬の灯台設立についてどのような経緯があったのか、外国人技師がどのように関わっていたのかがわかる貴重な史料であるといえる。

摂津国兎原郡の篠原村関係文書・若林家文書・慶隆寺文書

地域

篠原村は現在の灘区篠原本町・篠原中町・篠原南町・篠原北町・長峰台・篠原伯母野山町・篠原台・大月台にあたる。中世は都賀庄内にあり、文安4年(1447)頃の夏麦山手注文(天城文書)には「しの原」の三郎五郎がみえる。文明元年(1469)11月日の都賀庄寺庵帳(同文書)には慶隆寺(現浄土宗慶光寺)が記される。

慶長国絵図には篠原村と南西に山田村が接して記され、合計高271石余。山田村は近世の郷帳にはみえない。慶長19年(1614)の片桐貞隆覚書(天城文書)によると、篠原村の高271石余は西川喜八郎に付されている。元和3年(1617)の摂津一国御改帳によると西川八右衛門知行(高251石余)と幕府領村上孫左衛門預(高20石余)の相給。幕府領は同年尼崎藩領となり、宝永8年(1711)再び幕府領、その後正徳2年(1712)下総古河藩領となり幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳)。西川領は貞享年間(1684―88)に幕府領となり幕末に至る(享保20年摂河泉石高調、旧高旧領取調帳など)。正保郷帳では西川領高250石余、尼崎藩領高20石余。享保20年(1735)の摂河泉石高調では幕府領高283石余、古河藩領高20石余。貞享年間の尼崎領内高・家数・人数・船数等覚(金蓮寺旧蔵文書)によると尼崎藩領の家数1・人数7。天明七年(1787)の村高諸事書上帳(大利家文書)では幕府領の家数75・人数324、水車6両(精米用)、石稼がある。石稼は六甲御影石の採取販売である。氏神は五毛村の天神社(現河内国魂神社)、寺は教専寺(現真宗大谷派)・慶隆寺・祥竜寺。天保13年(1842)の諸郷株石控冥加銀附写(灘酒経済史料集成)によると酒造家1人・株高978石余。(平凡社『日本歴史地名大系』による)

若林氏はもともと兎原郡都賀庄の惣名主であったらしく(No,265)、『兵庫県史 史料編』には「天城文書」「若林家文書」が掲載されている。都賀庄は現灘区の摩耶山を含めた中央部あたりに比定されているが、若林氏の先祖の菩提寺である慶隆寺は篠原村にあるので、若林家文書・慶隆寺文書は篠原村関係文書とともに紹介する。

なお、慶隆寺は高羽村の光台寺と合併し、現在は慶光寺となっている。

また、No,284-7には篠原村の伝承が記述されており、そのひとつに伯母野ヶ原の一本松の由来が記されている。それによると数百年前に一人の伯母がおり、権現宮を祀って深く信仰していた。その伯母は若林氏の先祖であるという。伯母の墓所へ植えた松が数百年を経て「伯母野の一本松」、「名残松」と呼ばれるようになり、津国名所記録にも載せられているという。現在でも篠原伯母野山町という地名が残っている。

No,284-9によれば、この伯母野ヶ原の一本松は天保5年(1834)に枯れてしまったらしく、松が植え替えられたという。

文書群

篠原村関係文書は計13点で、河原村との境目争論・山田村との山論・かろと村との山論・詫び状・小塔組に関する文書などがある。河原村・山田村・かろと村とも篠原村の近隣にある村であり、山論が多いことからも六甲山の境目をめぐって争いが起きていたことが窺える。

若林家に関する文書は計25点で、借用状・詫び状・訴状(譜代の女が出奔するにつき)・系図・先祖の事蹟についての文書が多い。特徴的なのは若林氏の先祖についての覚や書上が多い点である。近世における若林氏がどのような立場にあったのかが詳しくはわからないが、どのような時期に先祖の伝承が記録として残されるのかという点が興味深い。

若林家に関する文書は神戸市文書館にも収蔵されているが、「古文書」にある若林家に関する文書は近世初期のものが多いという特徴が見られる。

慶隆寺関係文書は計7点で、慶隆寺の再建・慶隆寺の由来・訴状(住持につき)・替手形などについての文書がある。先述したように慶隆寺と若林氏は関係が深く、慶隆寺は若林氏の菩提寺であった。よって再建や住持についての訴状にも若林氏が深く関わってきている。

文書紹介

ここでは、No,257の篠原村小塔関係文書、 No,265の慶隆寺の由来・住持交代の訴状を中心に紹介していきたい。 No,257の篠原村小塔関係文書によれば、小塔とは篠原村内の古き家を組にしたもので、承応2年(1654)から始まり、例年2月15日に祭礼を行っていた。しかし、嘉永7年(1854)ころに篠原村の善太夫・次兵衛が新たな組を作ろうとして働きかけており、組頭であった忠次・吉太夫から訴えられている。No,257-1によれば和順が成立し、もともと8組だったものが3組増えて、計11組になったという。

この争論の背景には、もともとの組数では祭礼などがうまく経営できていない状況があった。小塔組は承応2年という早い時期に成立したことから、以後の篠原村における人口の増加に対応できなくなったのではないか。人口増加は生活環境の改善という点もあるのかもしれないが、出稼ぎなどの他地域からの人口流入という点もあるのではないだろうか。

No,265-1の慶隆寺の由来についてであるが、まずは慶隆寺の由来についてまとめておく。篠原村の勝岡山慶隆寺は元来都賀庄の惣名主であった若林勝岡が先祖・子孫の菩提所として建立した寺院であった。慶隆寺の山号が勝岡山なのは若林勝岡が建立したからであるという。以上が慶隆寺の由来である。

その後、乱世によって焼き払われて退転していたが、元和8・9年(1622・23)ころに若林家の畑地に慶隆寺を建立した。その後、住吉村の阿弥陀寺の乗誉を通じて、大坂西寺町源聖寺の弟子行西坊を慶隆寺の初代従事として招き、源聖寺の末寺となった。No,265-1は年号が書かれていないが、元和8・9年に曽祖父が再建したとあり、元禄6年(1693)の堂庫裏修復のことも記述しているので、この文書は1700年前後に書かれたであろう。

そして延享年間(1744~1748)に若林家と慶隆寺の住持の間で争いが生じている。きっかけは住持が若林家の先祖の廿五年忌の追善供養を執り行わなかったことである。この住持はこれだけではなく、そのほかの供養も執り行わなかったらしい。若林嘉茂次は篠原村の庄屋・年寄とも相談して住持に命令したが住持はそれにも従わず、さらにこの住持は無断で寺の普請なども行っていた。これらの住持による理不尽なる行為に対して、若林嘉茂次らの慶隆寺檀那は御本山に対して、菩提寺として然るべきよう住持に仰せ下すよう訴えている。もともとは若林氏の菩提寺であったものが、何代も続いていくことによって、菩提寺の性格は薄れ、村の寺という存在に変化していったのだろう。

同国同郡の光明寺文書

地域

光明寺は現在の神戸市東灘区御影石町(近世では石屋村にあたる)にある浄土真宗大谷派の寺院である。

石屋村は、現在の東灘区御影石町・御影町石屋・御影塚町にあたる。御影村の西、石屋川沿いの沖積地の河口部を占め、山陽道が村内を横断する。村名は石加工の石屋に由来するとみられる。慶長国絵図に村名がみえ、高198石余。元和3年(1617)幕府領村上孫左衛門預(摂津一国御改帳)、同年尼崎藩領(「大垣藩地方雑記」岐阜県立図書館蔵、宝暦10年「尼崎領郷村高辻帳」尼崎市立図書館蔵)。明和6年(1769)幕府領となり幕末に至る(「辻六郎左衛門預り所成村々覚」鷲尾家文書、旧高旧領取調帳)。前掲御改帳では石屋御影村とあり、高199石余。正保郷帳では石屋村と記され、同高。享保20年(1735)の摂河泉石高調では高235石余。天保郷帳によると高238石余。寛文9年(1669)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)では家数103・人数496。天明8年(1788)の巡見使通行用留帳(岡本家文書)によると家数132、水車1両。氏神は綱敷天神、寺は光明寺(現真宗大谷派)と一向宗辻本。酒造業は享和3年(1803)14軒・株高15891石余(「酒造株石高数之控」四井家文書)、天保13年(1842)13人・株高28029石余(「諸郷株石控冥加銀附写」灘酒経済史料集成)。文政4年(1821)の郷別江戸入津樽数覚(西宮市有文書)では酒樽470043樽。文化2年(1805)油稼仲間目代らが兎原・武庫両郡74ヵ村の油稼人から訴えられているが、当村にも油屋目代がいた。(平凡社『日本歴史地名大系』による)

文書群

光明寺関係文書は計44点で、宗旨人別送り状・願上(埋葬・本堂再建など)・雨乞・本願寺との書状が主である。そのなかでも宗旨人別送り状が最も多い。また、年代は江戸時代末期から明治初期にかけての史料が多い。光明寺は史料上では「摂州兎原郡石御影村惣道場光明寺」と記述されているが、「石御影村」は石屋御影村のことであり、石屋村を指す。

No,261によれば、光明寺は元文2年(1737)ころに再建されているようである。

文書紹介

No,264には、浄土真宗の寺院である光明寺と本山にあたる東本願寺との書状が残っている。それによると、東本願寺より光明寺に対して木造の御本尊・喚鐘・飛檐・茶地緞子・輪袈裟・歓喜光院の御影・坊号が御免されている。木造御本尊がいつ御免されたのかはわからないが、それ以外は喚鐘・飛檐・茶地緞子・輪袈裟・歓喜光院の御影・坊号の順に御免されている。真宗大谷派における光明寺の階梯を示すものだろう。

また、本願寺関係者が有馬に逗留していたときには、酒の用意を命じられている。

また、No,249・250では、大坂堂島江良町・播州揖西郡養久村からの出稼ぎ人の検死を願い上げたものであるが、石屋村は近隣の地域からの出稼ぎ人たちが集まってくる場所であったことを示しているのだろう。

播磨国宍粟郡の安黒村関係文書

地域

安黒村は現在の一宮町安黒にあたる。揖保川の左岸に位置し、同川の支流岡城川が形成した堆積地と揖保川の沖積地からなる。

江戸時代初期は神戸(かんべ)村に含まれ、正保郷帳に村名はみえない。安黒村庄屋覚書(安黒区有文書)や神戸郷諸事覚書(糺家文書)によると、分村を繰返した神戸村は寛文9年(1669)に二分され、南部は安黒村、北部は伊和村となって神戸村の名は消滅したと伝える。分村後は山崎藩領、延宝7年(1679)幕府領、延享元年(1744)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領、同三年幕府領、明和6年(1769)同年尼崎藩領となり幕末に至る(岡本家文書・旧高旧領取調帳など)。

元禄郷帳では「古ハ市場村」と注記され、高338石余。下村氏手控帳(下村家文書)によれば、寛文―延宝(1661―81)には高338石余、田18町2反余・畑6町3反余、家数35・人数210、馬2・牛33。貞享2年(1685)の村明細帳(土居家文書)では田方289石余・16町1反余、畑方48石余・8町7反余、家数39(高持36・無高3)・人数291、牛19・馬3。安政3年(1856)の伊和組17ヵ村家数・人数帳によれば家数65(高持48・無高17)・人数229、牛17。山間地で揖保川の清流に恵まれた現一宮町域では農家の副業として紙漉・製茶・養蚕などが盛んであった。これらの原料は村内全域で生産され、前掲手控帳に楮役25匁余・茶役29匁余・桑役(真綿)292匁余とある。産土神は須行名の伊和神社。(平凡社『日本歴史地名大系』による)

文書群

安黒村に関する史料は8点あり、達・村明細・争論・用水・酒造・鉄砲控に関する史料が中心である。文書の年代は江戸時代の中後期が主である。

文書紹介

ここではNo,207の「曲り井場紛失一件願」を紹介する。

この争論の発端は、構村の市郎兵衛が「曲り井」という村々立会用水の場所より石を取ったことによる。始めは構村の庄屋を通じて石を取ってはいけないと市郎兵衛に伝えたのだが、再び石が取られてしまう。そこで大庄屋に願い上げて、野田村・能倉村の庄屋を使いとしてとりなしを行うことになるが、解決できなかった。それで安志御役所・上郡御役所へ解決を願い上げることになる。

以上がこの争論の内容である。争論がこじれてどのように進展していくのかがわかる史料であるが、双方の主張の内容も注目すべきものがある。伊和村・安黒村の主張は、水がないので稲作ができず、すべて畑作になるということ、市郎兵衛が市場村で新田開発を行っており、用水がそちらに多く流れるようになり、下流の須行名村・伊和村・安黒村はただでさえ水で不自由をしていること、用水路管理として下流の村々は構村山内において草刈などを行っているということである。これらを根拠として市郎兵衛の行為をやめさせようとしているのである。この中で興味深く思ったのは、下流の村々の利害が領主側の利害として主張されている点、新田開発によって逆に生産が落ちてしまう地域がある点である。前者は稲作ができないことによって領主側の収入減を主張しているのであり、後者は新田開発という事業の裏面を示しているのである。

同国神東群の屋形村関係文書

地域

屋形村は現在の市川町屋形にあたる。浅野村の北、市川左岸に位置し、神東郡に属した。市川舟運の起点で、市川に沿って縦断する生野街道の要地でもあった。

中世には川述郷に含まれた。天正7年(1579)9月の大宮天神社神事次第(内藤文書)に屋形村とみえ、大宮天神社(現小畑の天満神社)の神事で「練テノ相撲」などを担当することとなっており、御旅所も村内に置かれていた。また社務を勤める高橋四郎太夫は屋形村の領主と考えられる。元禄年間(1688―1704)成立の「赤松家播備作城記」に屋形飯盛山城主高橋備後守がみえる。高橋四郎太夫は、赤松則房の被官人として大河内庄(現大河内町)内にも給分地をもっており、宍粟郡長水城(現山崎町)城主宇野民部大輔(祐清)との大河内表合戦で負傷している(年月日未詳「赤松氏奉行人連署感状押紙」上月文書)。

寛永17年(1640)領地を没収された旧山崎藩主池田輝澄の堪忍分一万石のなかに含まれ、輝澄の宗家である因幡鳥取藩池田氏領となった(「池田氏系図」池田家文庫、正保郷帳など)。寛文2年(1662)輝澄の嫡子池田政直が堪忍分一万石を継承し福本藩を立藩、同藩領となる。同六年政直の弟政武が襲封した際、その弟政済に三千石が分知された。政済は当村に陣屋を置き、以後旗本屋形池田領として幕末に到る。

正保郷帳では田方396石余・畑方41石余、「柴山有」と注記される。天保郷帳では高461石余。安政6年(1859)の村支配割帳(屋形区有文書)では家数120。寛延3年(1750)但馬気多川と市川を結ぶ通船計画で、当村から下流に高瀬舟の運行が計画された(「北国廻り高瀬舟川筋荷物船積差障りにつき願書」三木家文書など)。当村は御用駅継立方を勤めており、文政11年(1828)真弓村(現生野町)・猪篠村(現神崎町)との間で宿場外の間村の人馬継立対策を取決めている(「取替一札」屋形区有文書)。同13年の差入申一札(屋形池田家文書)、嘉永元年(1848)の歎願書(同文書)によると、多可郡作畑村(現神崎町)の新規銀山稼行により銀気悪水が流入、また慶応元年(1865)には西小畑村の銀山の毒煙により農作物に被害が出ている(「覚」同文書)。明治4年(1871)には宿駅雇傭夫役賃銭増額の嘆願が行われている(「願書」同文書)。同年の播但農民一揆の際、一揆勢説得のため当村に赴いた生野県権少属白洲文吾と同県捕亡山本源吾が市川橋東詰で刺殺され(「公文録」国立公文書館蔵)、庄屋役2人が各5円25銭の贖罪金、村民1人が1円50銭の罰金刑に処せられた(「重軽違警罪判決原本」姫路区裁判所検事局蔵)。明治5年村内の曹洞宗宝樹寺に神東郡役所が設置された。同寺内には池田家の墓がある。(平凡社『日本歴史地名大系』による)

文書群

屋形村に関する文書は26点であり、口上・訴訟・預り手形・借用手形がある。そのなかで口上・訴訟に関する文書が多い。年代は江戸時代後期のもの、特に1800年代のものが多い。

文書紹介

ここではNo,251の「乍恐奉差上口上」について紹介する。

これは姫路と西治村の往来の最中に牛が転倒したことへの処理についての文書である。勇蔵が姫路からの帰り道の溝口村辺で牛が転倒して前足を怪我し、動けなくなった。そこで一旦牛を村人に預けて西治村へ帰り、翌日に牛を戸板に乗せて西治村へ帰ろうとした。しかし、野田村の掃除株の者が大勢やってきて、怪我牛であっても棒を持ち込む場合は掃除株の者に断りを入れるべきであること、牛に鞍があるので鞍代銀を差し出すべきことを主張している。その後、相互に掛け合いがなされるも解決せず、その解決を大庄屋に頼むことになる。 以上が大まかな流れであるが、興味深いのは野田村の掃除株の者についてである。掛け合いをした西治村の人物も知らないことだとしている。また、牛が怪我をする以前には掃除株の者とのトラブルも生じていないことから、普通は掃除株の者とトラブルになることはほとんどないが、牛が怪我して戸板に乗せて運ぶという状況になって掃除株の者とトラブルが起きるということがわかる。掃除株の者がどのような活動をしていたのかはこの史料だけでは十分に知りえないが、独自の法を持ち活動していたことは興味深いものがある。

淡路国洲本の鍋屋(奥野家)文書

地域

鍋屋(奥野氏)は洲本の通町七丁目にいた。ここでは洲本の様子を以下に記すことにする。

三熊山北麓、洲本川河口部に建設された、阿波徳島藩洲本城の城下町。江戸時代には須本(洲本)府と称され、淡路島内の村浦から当城下へ行くことは出府といわれた。寛永7年(1630)徳島藩は幕府の認可を受け、由良にあった政庁、寺院、武家屋敷などを移転させ、須本(洲本)の地に計画的に配置した(「須本御城普請之儀ニ付御奉書并添状」「淡州御城之義ニ付御老中より之書状―右御控并中条次太夫言上書添」蜂須賀家文書)。城下はほぼ東流する洲本川と北流する同川支流千草川を外堀とし、中央に南北の中堀を掘削し、中堀より西を外町、東を内町とした。外町はほぼ津田村のうちに町立てされた。外部から城下への出入口はすべて外町からとし、千草川河岸の南西に上物部口、西に下物部口、北の洲本川河岸に塩屋口が設けられた。なお明和年間(1764~72)以後はもう1ヵ所塩屋口の西方に宇山口が構えられた(安永年間「城下図」淡路文化史料館蔵)。上物部口以外の各出入口はいずれも河川を渡渉するので、橋が必要であったが、防衛上貞享~元禄(1684~1704)の頃まで架橋させなかった。各出入口の内側には枡形か番所が置かれ、出入りを監視した。

町人町としては山下18町と称される18八町が内町・外町のほぼ中央部に配され、武家地や寺町がこれを取巻いているような配置になっている。18町のうち通町1丁目から7丁目までの各町は内町から外町にかけて東から西に貫いており、1丁目から4丁目までは内通、5丁目から7丁目までが外通といわれた。このほか内町には上大工町・漁師町・下大工町・魚町・細工町・上水筒町・下水筒町・馬場町、外町には紺屋町・鍛冶屋町・新町があった。 由良から移転してきた寺院などは城下外濠の辺りに計画的に集めて配備された。薬師庵・浄光寺・称名寺・専称寺・青蓮寺・地蔵寺・千福寺・本妙寺の8ヵ寺は千草川沿いに並んで寺町を形成、洲本川沿いの築屋敷西端には、城代稲田氏の菩提寺江国寺が配せられた。中堀の南端には吸江寺、外町の七丁目南裏には浄泉寺が置かれた。また神社は居館前の堀のすぐ西に八幡社、洲本川河口の番所近くに厳島神社、御門筋と馬場町の間に洲本明神の、洲本三社が祀られていた。なお城下からは北へ岩屋街道、南西へ福良街道が出ており、岩屋街道中川原村までは35町40間、福良街道の下内膳村までは24町30間の距離にあった(延宝6年「島内本駄賃軽尻夫賃定書」佐野家文書)。(平凡社『日本歴史地名大系』による)

文書群

鍋屋文書は759点であり、「古文書」の分類のなかでは一番点数が多い。内容はほとんどが質入証文や預り証文である。金額は数百匁のものから30貫文のものまでさまざまである。鍋屋家が金の貸し出す範囲は洲本近隣の村(内膳村・物部村など)が多い。また、「番号なし」の文書のなかには鍋屋家が金の借り入れている文書があり、鍋屋家を中心としてその周辺でどのようなお金のやりとりが行われていたかがわかるのではないだろうか。

文書紹介

【文書群】の項でも説明したが、鍋屋文書はほとんどすべてが質入証文や預り証文である。しかし、No,364-29・30・45に帯刀免許に関する覚えが、No,364-31からNo,364-36には鍋屋(奥野家)の相続に関する文書が残っているので、それについて紹介する。

相続に関する史料は鍋屋松兵衛から鍋屋小四郎への相続に関するものから残っている。それによると、鍋屋の本主である鍋屋松兵衛が鍋屋本家を奥野小四郎へと相続させること、松兵衛の実父である友松は松兵衛の死後も本家の指図をすべきでないことが記述されている。

次に鍋屋の本主となった奥野小四郎についてみてみると、文政11年(1828)に帯刀が許されている。帯刀を許されたのは、御銀主役と御用宿を年来勤めていたことと、文政7・8年(1824・1825)に大坂での新金引替に対して功があったことが主な理由である。しかし、当時奥野小四郎は病気を患っていたらしく、帯刀御免の御礼などは親族の鍋屋保之弥が代わりとして執り行っている。なお、No,364-45には帯刀御免の成り行きや手続きが記述されている。今町の御役処より呼び出しがあり、そこで帯刀の御免がなされている。そして御仕置様・元〆様・御書記衆・町奉行に対して御礼を行っている。町奉行からの祝儀や鍋屋一門からの祝儀なども詳しく記述されている。 その後、奥野小四郎は亡くなるが、相続すべき息子がおらず、親族の鍋屋伊三郎の倅国吉を婿養子にすることにするが、国吉が幼少なのでその間は分家の鍋屋市郎兵衛に家督を相続させることにしている。

このように複雑な家業継承がなされており、だからこそこの時期の相続に関する文書が多く残っているのだろう。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)
(2020.3 目録更新)

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