船渡村庄屋文書


播磨国揖東郡船渡村庄屋文書解題

地域

船渡村(現在の行政区画は兵庫県たつの市新宮町船渡)…揖保川の右岸、觜崎村の北西に位置し、揖東郡に属した。江戸時代初期は觜崎村の一部であった。正保郷帳に村名がみえ、田方32石余・畑方7石余で、林田藩領。同藩領になってから分村したものと思われ、同藩領のまま幕末に至る。

天保郷帳では橋崎村枝郷と注記され、高103石余。旧高旧領取調帳では觜崎村に含まれた。当村は美作道觜崎宿のうち揖保川より西の觜崎西駅を觜崎村・佐野村とともに担っていた。宝暦9年(1759)当村に俳諧師大蛤舎由良雄が住み、天明5年(1785)に没するまで門人数百人を数えたという。由良雄の子川島亀孫も当地一帯で俳句の普及に努めたという(新宮町史)。

「船渡村庄屋文書」には播磨国揖西郡今市村に関する文書も多く残っているので、今市村についても紹介しておく。

今市村(現在の行政区画は兵庫県たつの市揖保町今市)…揖西郡に属する。 領主の変遷は、慶長5年(1600)池田輝政(姫路藩)領、元和3年(1617)龍野藩領、寛永9年(1632)幕府領、同10年龍野藩領、同13年幕府領、同14年龍野藩領、明暦4年(1658)幕府領、寛文12年(1672)龍野藩領となり幕末に至る。

慶長7年(1602)の今市村検地帳(出田家文書)では高445石余、反別は上田2町4反余・中田7町9反余・下田12町3反余・下々田4町3反余・荒田2町余、上畑1町3反余・中畑1町6反余・下畑1町5反余・下々畑8畝余・荒畑1町4反余・居屋敷5反余。寛永10年(1633)の免状(同文書)では高414石余、取米224石余。同13年の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では高367石余。正保郷帳では田方328石余・畑方39石余。宝暦年間(1751―64)の龍野藩領分明細帳(矢本家文書)では高373石余、うち永荒38石余、反別は田方28町6反余・畑方4町6反余、本免6ツ6分・古新3ツ、山札茶役銀20匁余、家数79。天明8年(1788)の家数83・人数359(出田家文書)。 文久3年(1863)当村の出田貫一郎は龍野藩が組織した農武隊中組の肝煎を勤めている(「農武組稽古扶持米覚」出田家文書)。

なお、ともに平凡社『日本歴史地名大系』を参照した。

文書群

「船渡村庄屋文書」は、総475点。帳簿類が多く、主に名寄帳や宗旨御改帳などが多い。また、人足の書上や、見舞金の書上、女房を迎えるための費用の書上などさまざまな帳簿が残っている。そのほかには土地の売買に関する文書も多い。

水論や山論に関する文書も残っていて、水論に関しては水の融通や新規に樋を通すことに関する文書が残っている。蛇足になるが、「嘉永六年大旱魃之記」(51)では、村々が旱魃に対してどのような行為をとったのかがわかるとともに、この史料の端々には「犬の手は犬に戻して農休」「雨ふりてつるべも人も一休」などの俳句・川柳がちりばめられており、【地域】の項目で記述したような俳諧師などとの関わりも窺わせるものもある。山論は馬立村とのものが見受けられる。しばしば争論があったようである。山論については【文書紹介】の項目で後述する。

今回の目録・解題には反映できなかったが、船渡村の庄屋日記(45~49)や諸事御用向田畑賣買質物差定山札永禄(35・36)、御用向書留帳(192)には諸事が書き留められており、また文量も多いので、深く分析することができるだろう。

先に【地域】の項目で今市村についても説明したが、船渡村と今市村は隣接している村ではなく、4キロメートルほどの距離がある。なぜ今市村の文書が「船渡村庄屋文書」に含まれているのかは不明である。今市村だけではなく、摂津国西成郡南酉嶋新田の絵図(202-11)、南酉嶋新田支配人の口上(202-40)西成郡上福嶋村庄屋差出の断簡(202-45)、和泉国大鳥郡舳松村差出の口上(201-49)など、船渡村と直接には関係のないような文書もしばしば残されている。和泉国大鳥郡舳松村差出の口上(201-49)は、北庄村にある御仕置もの・牢死人の墓所について、最近は死体が多すぎて処理できない状況などが描き出されており、興味深い内容となっている。しかし、これらもなぜ船渡村庄屋文書として伝来したかは不明である。

文書紹介

馬立掛留書帳(50)について紹介する。 はじめにこの山論に登場する船渡村、北村、馬立村の位置関係を確認しておく。この村々は今の行政区分ではたつの市新宮町の一部となっている。この地域は揖保川沿いの低地のすぐそばに山がそびえたっている。船渡村・北村は揖保川沿いにあり、船渡村の隣村である馬立村は揖保川西側の山中にある。

事件の発端はそれ以前において觜崎村・船渡村・中ノ庄村と下野田村との間で山論があったことである。それについては裁許が下されるが、にもかかわらず馬立村が北村・船渡村所持の山に牛馬を放ち野飼をはじめた。よって北村・船渡村と馬立村で山論が起こることになる。この史料はこの船渡村・北村と馬立村の山論の記録であるが、どのような経過をたどったのかを逐一記録しているので、双方の動きや主張を追うことができる点で面白い史料である。 簡単に流れを紹介すると、馬立村の百姓が北村・船渡村所持の山へ牛馬を放ったことにより、北村・船渡村の者が大坂御番所に訴え出て、大坂御番所にて双方の主張を吟味して、先の裁許に従うべきとの裁許が出されることになる。

興味深い点としては、山論に対してまずは大庄屋を通じてのとりなしを求めているが、馬立村の者がそれに従わなかった点、大坂御番所にて吟味をする時に馬立村の裁判出席者が病気になり、吟味がどのように延期されるかがわかる点、この地域は「庄内」という単位で6ヶ村がつながっているが、一方で山での牛馬の野飼については觜崎村・下野田村・中ノ庄村・馬立村の4ヶ村、北村・船渡村の2ヶ村で山利用の規定が違っている点、山についても井関山や中垣内山といった様に村によって認識が違う点などが挙げられる。最後の点に関しては、どこまでが使用できる山の地域なのかという認識に大きく関わってくるが、明確な境界線が引きにくいこともあってか双方で主張が大きく異なってきている。また、中垣内山は地頭の「御運上山」であり、地頭が主体となって管理維持しており、それが入会山となって周辺村々に利用されている様子も窺える。山の使用やその維持に関しても垣間見える史料であり、この時代において山はどのような役割を果たしていたのかがわかる史料であるといえる。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)
(2020.3 目録更新)

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