福井家文書


摂津国豊島郡池田村福井家文書解題

地域

福井家文書は豊島郡池田村(現在の行政区画は大阪府池田市)に居住していた福井家の文書で、江戸時代には丹波屋という屋号を持っていた。まず福井家の本拠となった池田村についてみてみると、池田村は北摂山塊南端の五月山の南に広がり、村の西側を猪名川が南流する。村のほぼ中央を東から西に、さらに池田の町中で北に折れ、北摂山間諸村へ向かう能勢街道が通り、また有馬道・西国街道へも通ずる交通の要衝で、近世には馬借所がおかれたとされる。(『日本歴史地名体系』による。)流通の拠点であり、商業が盛んであったらしいが、福井家がどのような生業をしていたかは、この文書群だけでは不明である。

文書群

福井家文書は、全228点で、文化12年(1815年)12月から明治20年(1894年)4月までの文書が残っているが、ほとんどが明治初旬のものが多い。内訳は205点が証文類で、売買や借用金などに関するものであり、残りは小作証文や年季奉公人請状、髪結人に対する触書、建屋に関するものなどであり、さまざまな内容の文書が残っている。

福井家文書は、福井家に関する文書群であるが、福井家については文書番号10の「書残置事之確証」に断片的にだが書かれており、それによると、福井家は中之町に本拠を構えていたが、天保年中(1830~1844年)に中之町の南にある米屋町に出店したという。福井家文書によく登場する「福井市太郎(一太郎)」がこの中之町福井家の当主であった。また、文書番号10の「書残置事之確証」では、米屋町福井家の相続人がいなくなり、「伊三郎」と申す者が相続人になったという。同じくこの福井家文書にでてくる「福井伊三郎」は米屋町福井家の当主であると考えられる。福井伊三郎に関する文書は10点しかなく、福井家文書は主に中之町福井家の文書群であるといえるが、なぜ福井伊三郎の文書が残っているのかは不明である。本家の中之町福井家は江戸時代には丹波屋の屋号を持ち、天保年中(1830~1844年)の江戸西の丸修造に対し、金拾五両を出したりしている。

文書紹介

この文書群の内容であるが、前述したように売買などの証文がほとんどである。貸し出し金額は10円未満から200円までと幅広い一方、福井家に質物を担保として金を借りる人物は、小戸村(川辺郡)、池田村、井口堂村(豊島郡)など近辺の者が多く、質物となる土地・屋敷も福井家の近辺であるという傾向がある。この証文は質物・貸し出し金額が書かれ、返済を遅れないこと、金利も払うこと、もし返済が滞ったら保証人(請人)が代わりに支払うことなどが明記されるのだが、その文言はほぼ同じである。それは文書番号13-3や13-16など、手本となるような下書が残っており、これを参考にしつつ作成されたのであろう。

明治時代以降の文書はこのような証文がほとんどあるのに対し、江戸時代の文書はそれ以外の内容を含む文書も残っている。数点あげると、文書番号2では大坂御番所様より髪結稼の者に御用人足が掛けられることがあるが、髪結稼ぎの者にだけ賦課がされていること、池田村の髪結稼ぎは16人に決まっており、他村から髪結稼ぎの者が引越してきても家を貸してはいけないこと、髪結い稼ぎ中で情報伝達のための連絡網が形成されていることが興味深い。文書番号3では、治郎吉という者が、青物売掛ケ代銭8貫370文の納入をしなかったことにつき、鈴木町の御役所へ訴訟をおこしている。文書番号5-1、5-2では福井せりが家を建てるのに際して屋敷前にあった町内用水用の井戸を屋敷内に取り込んで家を建てて、村方と争いが起きている。 この福井家文書は証文類が豊富にあることから、証文の活用の仕方やその変遷が追いやすい文書群である。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)
(2020.3 目録更新)

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