浅野村年貢免状・吹田村文書


浅野村年貢免定 解題

辻川組浅野村とあり、播磨国神東郡辻川村の三木家が大庄屋を務める辻川組に所属した村である。現在は市川町に所属している。慶長5年(1600)から姫路藩領。「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」ともに125石5斗1升3合となっている。史料はすべて年貢免定であり、明和2年(1765)から明治2年(1869)まで68点ある。 若林泰氏のメモによると「交泉会より購入」とある。若林泰氏を偲ぶ会は1988年8月5日記録した時点では、吹田村文書とともにマンションの納戸の床に置かれており、納戸乙床①と所在番号を付けた。

明和2年の免定によると、本田116石2斗6升4合、新田5石5斗9合、新田3石4升、新田5斗で、明和5年(1768)の免定は変更がないが、その次の安永5年(1776)になると2斗の丑高入新田が加わり、125石5斗1升3合となり明治に至った。4度にわたって新田が開発されたこと、最後の明和5年から安永5年までの丑年は明和6年で、この年に最後の新田改めが行われたことが判明する。

本田のうち6石3斗2升6合は他村からの出作で本田の年貢率が24.5%だったのに対し、割高な35%の年貢率をかけていることが注目される。また5石余の新田は32.5%の年貢率で本田より高いことも注意を引く。3石余りの新田は21%。5斗の新田は巳水押午より河原引で年貢はかけられなかった。この本田24.5%、他村出作35%、5石余の新田32.5%、3石余りの新田は21%、5斗の新田は年貢減免という年貢率は明治2年まで変更なく続いた。

本田のうち、永引・巳水押午より河原引・卯水押付川欠引があり、水害に何度も遭ったこと、また卯水押に対して未より亥迄5ケ年鍬下があり、水害の被災地の再開発が行われ、それに対し年貢が減免されていることがうかがえる。
(神戸深江生活文化史料館&神戸史学会 大国正美)

吹田村文書 解題

島下郡吹田村(大阪府吹田市)の才次郎家に関する史料である。近代には姓は楓。近世の吹田村は、東之庄・西之庄・新開の3か村に分かれ、東之庄は旗本竹中氏の所領だった。東之庄は明治になると東組となった。竹中氏は摂津国島下郡・豊島郡、河内国河内郡、近江国栗田郡で2330石を領有し、当地では1600石余りを与えられていた。また西之庄は旗本柘植氏の所領で、当地で500石を与えられていた。柘植氏ははじめ摂津国島下郡・川辺郡、近江国蒲生郡・滋賀郡、河内国河内郡で2000石、享保年間に分知して以降1500石の旗本になった。西之庄は明治維新後西組となった。

本史料には、嘉永3年(1850)から明治7年(1874)までのハマノ才次郎の年貢納入の通帳が15点ある。大半が東之庄のもので納入額は1石から2石までで、毎年変動している。1点のみ安政5年(1858)の西之庄の年貢納入の通帳があり、こちらは2石3斗を納入した。万延元年(1860)の堀栄講の掛銀受取通では毎月10匁ずつかけていることが分かる。領収書、法事や安産の見舞いの控え帳など明治後期にかけての史料が含まれている。中に大丸保治なる人物の領収書が6点混在しているが、関係は不明である。
(神戸深江生活文化史料館&神戸史学会 大国正美)

<参考文献>
亘節『吹田志稿』亘甫、1976
吹田市史編さん委員会 編『吹田市史』第2巻、吹田市1975年

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