高砂町柴屋源六・源右衛門家等文書


高砂町柴屋源六・源右衛門家等文書 解題

高砂町(現高砂市)の町人の屋敷の売買・質入れ・借用証文・預け銀出入・酒代売掛銀滞り出入などの文書で、明和元年(1764)から文久2年(1862)までの文書が多く、以降の幕末維新期は空白となり、続いて明治8年(1875)の文書を中心に明治期の史料が8点がある。

宛名は柴屋源六(天明3~享和3、文化7~嘉永5)、柴屋源右衛門(文政元~天保13)、柴屋長七(文政3)、福本源六(嘉永5~明治8)、柴屋ちか(嘉永5~明治8)、細工町福本ちか(明治8)、柴屋源六後家の文書が多く、高砂細工町在住で屋号は柴屋、源六を襲名し源右衛門と名乗った時代もあった家の史料が中核をなしていることがわかる。幕末維新期には源六が死去し、嘉永5年には源六後家のちかが家の切り盛りをしていた。残された文書には借用証文が多く、活発な金融活動をしている。また安政2年には岡村の非人番亀蔵に対し、酒代売り掛け銀滞り出入りの訴訟を起こしており、訴状によれば嘉永4年正月から7月までの間に銀254匁2分5厘と高額なことから、酒造業を営んでいたと思われる(史料番号114、152)。

細工町は高砂町方28町のうちの一つ。安永2年(1773)の「高砂町方明細帳写」によれば、棟数49、竈数66、店借33、人数240人、うち田地持ち2人。弘化3年(1846)の「宗門人別帳」(高砂市蔵)によれば家数44、人数178、明治4年(1871)の「宗門人別帳」では家数35、人数143。

このほか、大工屋太左衛門(安永2)、釜屋甚右衛門(天明5)、正月屋善七(文化8)、かりあみ屋太兵衛(文化8)、陰山村吉左衛門(文政元)、米屋半兵衛(文政3~天保7)、柳屋長兵衛(天保8~天保11)、今村兵蔵(嘉永5)宛ての文書が混じっている。別々の家の文書を高砂市関係文書として一括されたのか、それとも柴屋源六家の金融活動を通じて集積されたのか、その関係については未詳である。

最も古いのは明和元年細工町構年寄五郎兵衛が町大年寄衆中に宛てたもので、細工町の松屋市郎右衛門所持の屋敷を売却するにあたり、地境について家主・地主が立ち会って間数・建物を改めた文書である(史料番号106)。家屋敷の売買に当たって個別町の年寄が関係者の了解を取り付け、町大年寄に報告することが分かる。

借用証文では、銭や銀だけでなく銀切手・銭切手の方が多く、銭切手借用は38点、銀切手借用は14点あり、高砂町内での金融事情が伺える。

以下、興味深い史料をピックアップすると、天保8年(1837)には町内が銀1貫を借りているが、町内惣代は松しま屋万平・大多屋八助・魚屋半兵衛の3人で、組頭4人と連名で借用証文を出している。組頭はいずれも屋号を書いていない(史料番号118)。天保11年には北渡海町にあった文学院と清水町の大崎屋喜兵衛・高瀬町の塩屋源蔵が1回70匁を拠出する頼母子講を主催している(史料番号30)。文学院は醍醐寺三宝院の末流の修験道の寺院で、本尊は不動明王(『高砂市史高砂町史誌』)。頼母子は柴屋七兵衛発起のものもあり、掛け銀は札銀で1回600匁、塩屋五郎兵衛・志方屋佐助・餅屋市右衛門・小間物屋伝助が世話人となり、集金して柴屋に渡している(史料番号91)。また文政10年(1827)には助精講なるものが企てられ、岡田市野右衛門が銀切手100匁を借り、20か年賦で返済するとしている。長期に渡るためか、相続人である倅巳太郎も署名捺印している(史料番号92)。

嘉永5年(1852)、清水町の上荷船株を持っている清水町の釣屋五郎兵衛が株札を担保に銀240匁を借用した。魚町の高屋甚右衛門がこの株札を預かり返済を約束。元利が滞った場合はこの株札を売り払い返済に充てることを請け負った(史料番号88)。上荷船株の使われ方が興味深い。
また家具の貸借や借金の担保にすることが行われた。天保4年(1833)には、重ね戸棚の借用証文(史料番号89)がある。上は戸2枚、下は引き出しと帳箪笥という一般的なもので、1か月銀切手1匁だった。また文政5年(1822)には魚町の福来屋喜太郎は、新世帯を構えるにあたり、柴屋源右衛門から箪笥・戸棚各1本と畳8枚を月銀7分5厘で借用している(史料番号109)。また文政7年(1824)、まつ屋次兵衛は銭15貫文を借りる担保として重ね戸棚1本を質物に入れた(史料番号110)。

嘉永3年(1850)には、加東郡西村(小野市)の与兵衛から源六と北本町の善兵衛が預け銀を返済しないとして訴えられた(史料番号150)。これは弘化3年に(1846)与兵衛が明石郡西江井村の源左衞門・源五郎、林村才次郎、東江井村小十郎、西嶋村(いずれも明石市)勝兵衛に銀12貫を貸したというもので、源六らは証文には連名で名を連ねたが銀子は使っていない、と反論している。金融関係の広がりが注目される。
(神戸深江生活文化史料館&神戸史学会 大国正美)

<参考文献>
山本徹也『近世の高砂 : 中継港としての性格と機能』高砂市教育委員会、1971年
高砂町史誌編纂委員会『高砂市史高砂町史誌』高砂町史誌編纂委員会、1980年
高砂市史編さん専門委員会 編『高砂市史』第2巻、通史編近世、高砂市、2010年
高砂市史編さん専門委員会 編『高砂市史』第5巻、史料編近世、高砂市、2005年

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