若林泰氏収集文書


若林泰氏収集文書 解題

若林泰(わかばやし・ゆたか)氏は、中世から続く灘地方の土豪、若林氏の一族で、古書店などを通じて生涯をかけて古文書類を収集した。本文書群は、若林泰氏が収集、若林泰氏を偲ぶ会などが仮整理したものを、同会の仲介を経て、陽子夫人から寄贈されたものである。

若林氏は、1930年、神戸市灘区新在家で酒造会社を営んでいた若林秀雄・一枝の長男として神戸市灘区篠原北町で生まれた。灘中学、灘高校を経て52年、関西学院大学入学。56年、同大学院文学研究科修士課程進学と同時に新日本汽船の嘱託として社史編集に従事した。この間、灘高在学中にガリ版刷りの歴史研究誌『灘文化』を創刊、大学院在学中の56年の19号まで続いた。58年同大学院修士課程終了。61年に新日本汽船海事文化研究所の閉鎖が決まり依願退職して62年旭化成に入社。延岡市や本社などで勤務ののち、71年旭化成を退社して、芦屋市史編集事業に協力、71年西宮市にある黒川古文化研究所嘱託となった。同年7月宝塚市教育委員会市史編集室勤務となり、市史編纂などに従事した。85年11月、宝塚市教育委員会を依願退職。同月28日、逝去、享年56歳。 若林泰氏は莵原郡新在家村の若林與左衛門の系譜を引き、四代目與左衛門の遺児秀一郎が乾若林家を創設、その秀一郎の子が秀雄氏である。

若林秀雄氏が経営していた酒造会社は、1896年(明治29年)若林一族の清酒醸造業が法人化し若林合名会社として、灘五郷の一つ西郷の武庫郡都賀浜村(現・神戸市灘区)で設立。商標を「忠勇」とした。酒造の商標権は1976年白鶴酒造に譲渡し「忠勇」銘柄は存続。会社は合併を繰り返し、忠勇ブランドの奈良漬の製造は徳島県で続けられている。

なお、若林泰氏収集文書は、若林泰氏を偲ぶ会が仲介して、当館以外に、新修神戸市史の編纂で利用されたものを神戸市文書館に、伊丹市関係は市立伊丹ミュージアムに、宝塚市関係は宝塚市立中央図書館市史資料担当に、藩札関係は黒川古文化研究所に寄贈されている。神戸市文書館に寄贈した資料は、莵原郡篠原村(神戸市灘区)の近世及び近代文書、有馬郡有野村戸長役場文書(神戸市北区)、旧神戸市域文書、莵原郡五毛村(神戸市灘区)の海蔵寺文書、同郡岩屋村・三宮(神戸市灘区・中央区)松屋太兵衛・吉阪邦三文書、西宮辰馬文書(西宮市)、的場武兵衛文書(宝塚市)、伊丹近隣文書(伊丹市)などを含んでいる。

また当館には、若林泰氏収集文書とは別ルートで篠原村・若林家関係文書が収蔵されている。この古文書は若林家から流出し、神戸の古書店から兵庫県職員であり、郷土史家で民俗学者の太田陸郎が購入し、最終的に神戸大学附属図書館に納入された。木村修二氏、山本康司氏によって分析されている。
(神戸深江生活文化史料館&神戸史学会 大国正美)

<参考文献>
若林泰氏を偲ぶ会編 若林泰氏著作集『灘・神戸地方史の研究』(1987年)
若林泰氏を偲ぶ会編『図録 兵庫の古紙幣』(1991年)
若林泰氏を偲ぶ会編『播磨千本大庄屋と摂津有野村戸長役場の古文書』(1994年)
木村修二「神戸大学附属図書館所蔵近世初期篠原村・若林家関係文書」『LINK』Vol.3(2011年)
山本康司「神戸大学附属図書館所蔵「古文書」の来歴と太田陸郎」『LINK』Vol.6(2014年)

2024.8:1.~3. 公開

⇒デジタルアーカイブで『若林泰氏収集文書』の画像を見る

若林泰氏収集文書 各文書解題

1. 千本村内海家文書
2. 高砂町柴屋源六・源右衛門家等文書
3. 神西郡浅野村免状・吹田村文書

若林泰氏家文書における画像と目録リストとの照合作業報告(総括)

①本稿は、神戸大学附属図書館に所蔵されている、若林泰氏家文書における画像と目録リストとの照合作業を総括したものである。
②当該作業の目的は若林家文書の資料画像をデジタルアーカイブで公開する準備であった。附属図書館の方々により、事前に当該資料に対して画像と目録のそれぞれにリスト(エクセルファイル)が作成されていたが、原資料と画像および目録の対応関係が不明であったため、原資料と該当するデータとの紐づけ作業が完了していなかった。そこで最終確認として当該作業を行う者として、縁あって本稿の執筆者が機会をいただいたのが、作業開始までの経緯である。以下、作業内容について述べる。
③当該作業は、附属図書館の方々が用意したマニュアルにしたがって行った。作業の流れとしては、原資料と画像を照合し、(1)画像と資料が対応しているか、(2)画像における公開可否、(3)撮り直しを含む重複している画像については不要なものはあるか、と大きく3つの観点をふまえて画像リストに記入した。また、原資料を実際に見たことで判明した情報がある場合、画像に対しての補足であれば画像リストに、対応する目録の内容に対しての補足であれば目録リストから検索し、所定の欄に適宜補足した。当該資料は当初段ボール箱に収蔵されていた。そのため図書館方々の指示のもと、画像と目録との照合作業を終えた資料から、箱単位で順次中性紙保存箱に移していった。
④当該作業は令和3年9月より開始し、令和4年11月には原資料と画像との照合および紐づけの作業が、そして令和5年5月をもって原資料と目録との照合・紐づけの作業が終了したことで、全作業が終了した。当該作業の対象資料数は5,218点、対象画像数は6,850枚であった。
⑤当初は原資料と画像との照合作業を優先し、それが終わり次第、改めて原資料と目録との照合作業を行うという流れを考えていた。しかし、作業がある程度進んだ段階で、原資料と画像および目録の照合を同時に行っても支障がないと感じたため、以降は画像との照合と目録との照合を並行して行った。
⑥画像との照合作業では、第一段階として原資料と照合し、もともと画像が保存されていたフォルダから、公開準備用として作成された新しいフォルダに移動させた。新しいフォルダは資料番号ごとに用意されており、さらに公開を考慮した場合の画像の状態によって細分化されていた。公開することに問題がある場合は「非公開」に、重複している画像については画質を比較したうえで不要分を「不要」に、作業者による判断が難しく図書館側の判断を改めて仰ぐ必要がある場合は「保留」にと、それぞれ所定のフォルダに移動させた。続いて第二段階として画像ごとに、画像リストに照合させた原資料の資料番号や史料内の画像順、公開の可否やその程度、個人情報の有無、そのほか補足を入力した。画像自体について向きが不適切な場合は修正したうえで新しいフォルダに移動させた。
⑦目録との照合作業では、原資料に対応する目録について、内容が原資料と対応しているかを確認した。その後誤りがあれば訂正する必要があるので、修正内容を目録リストの所定の欄に適宜入力した。内容の修正については、資料の形態や作成者、宛名に対して入力したが、当該資料の大半に対して行った。これは作業者が目録リストの内容のままでは公開した際の資料検索にかかりにくくなる可能性があると考えたからである。当該資料の大半は目録と対応していたが、なかには対応する資料が不明なものや、特定の資料郡の総称であるのに独立した一点の資料の目録として記録されているものも見受けられた。前者は対応する資料を探して適宜修正し、後者は該当する資料の目録に反映させるように図書館側へ意見を記入した。

⑧以上、当該作業の総括を述べた。課題としては、入力した内容に対する修正作業を行うことが多々生じ、その度に前回までの入力内容を最初から修正することになって、作業期間が想定よりも長くなった点が挙げられる。この原因としては、図書館側と作業者との間で入力内容や記録の方法について、基準や認識を詳しく共有できていなかったためと考えられる。また、資料や画像の状態によって確認事項や入力方法が細分化されており、複雑であったのも原因と考えられる。作業が進むにつれて慣れていったものの、それまでにかなりの時間を要してしまい、またその過程で入力内容の誤りが生じてしまったため、上記の修正作業に時間を要することになったと考えられる。
⑨仮に今後当該作業に類似するものを行う際、作業期間を短縮することが望まれる場合は、事前に入力内容や方法について、より詳細に基準を共有しておくことが必要になると思われる。
⑩なお、当該作業後に公開予定の史料の画像に不備があるもの、および目録に再検討の箇所がいくつか見受けられたため、2023年7月より該当画像の再撮影および該当データの修正作業を行っている。
(文責:下箱石響)