河内国茨田郡点野村文書解題
地域
点野(しめの)村(現在の行政区は寝屋川市点野1―6丁目・葛原1―2丁目・仁和寺本町1丁目にあたる)は茨田郡に属し、淀川左岸に沿う。東は池田村・葛原村。淀川国役堤上を京街道が通る。集落は村域のほぼ中央部にある。東境には幅2間の点野囲い堤防があり南の対馬江囲い堤防に通じた。
正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高366石、小物成として蓮年貢米3石7斗余・葭島高4石5斗余。延宝年間(1673~81)の河内国支配帳は487石余。寛永10年(1633)山城淀藩永井尚政領となり、前記村高控帳では葭島高は幕府領。永井領は明暦4年(1658)分知されて尚政の四男直右領。元文2年(1737)の河内国高帳では永井直尭領488石余と幕府領5石余の入組み。天保6年(1835)から10ヵ年守口宿代助郷で、勤高200石(「差上申一札之事」『守口市史』所収)。嘉永元年(1848)から20ヵ年同宿増助郷で勤高143石(「東海道守口宿増助郷帳」同書所収)。慶応元年(1865)と推定される丑年に、守口宿助郷惣代から同村にあてられた同年7月から10月までの助郷割は銀4貫111匁余(『寝屋川市誌』)であった。
また、点野村は淀川沿いということもあり、しばしば水害を受けている。それについては【文書紹介】でも述べている。
大利村の茨木勝之の記した「享和二壬戌年大洪水私記」には洪水の様子が詳しく記されている。それによると、享和2年(1802)6月27日から降り続いた雨で淀川は増水し、29日晩8ツ頃から出水、7月1日朝には水は1丈2尺に達し、まず4ツ半時南接の仁和寺堤が切れ4軒が流失した。村人の多くが東方の寝屋川堤防に逃れた頃、7ツ時点野堤下の用水樋が抜けて堤防は決壊したという。点野村での流失家屋は36戸であり、上は楠葉村(現枚方市)から下は松原村(現松原市)辺まで、東は東高野街道まで「一面の白浪」となったという。この決壊を「仁和寺・点野切れ」と称する。また慶応4年4月から5月にかけての長雨では淀川の水位は1丈4尺に達し、354間にわたって堤防は崩れたが、上流対岸の唐崎村(現高槻市)での決壊で難を免れた(『寝屋川市誌』)。
産土神は天満宮社で、字中ノ道にあった。寺院は同社の宮寺であった真言宗勧喜山松梅寺と真宗大谷派金谷山西得寺。(平凡社『日本歴史地名大系』を参照)
文書群
「点野村文書」は総数1366点。形状は一紙が多く、年貢の皆済目録や人別村送り状、借用証文なども多く残っている。また、点野村と近隣の村(太間村や仁和寺村など)との書状が数多くある。書状の内容は多岐に渡る。
本文書群の特徴として、淀川やその堤についての関連文書が多いことが挙げられる。点野村が位置した寝屋川市点野は淀川沿いであり、【地域】でも紹介したようにたびたび洪水による被害を受けていた。淀川筋には文禄堤と称する堤が豊臣秀吉によって建設されていたが、たびたび欠損・決壊しており、その都度、国役による普請などが行われた。一方で堤によって悪水(作物の成育に害になる水をいったことば『日本国語大辞典』)処理が問題となり、堤の各所に伏樋が設置されることになるが、その設置場所をめぐって周辺の村々との交渉が行われている。(20-6・41・55・80、177、180、183所収の絵図など)また、堤に新樋を設置したことによって逆に水の流れが悪くなったという訴訟も起こっている。
一方、文禄堤の上には京街道が通っており、往還する人も多かったようである。淀川沿いの点野村もその影響を受けている。たとえば、行き倒れ人の処理についての文書が残っていることはそのことを示していよう。点野村の領内で行き倒れた人については点野村がその処理をしている。行き倒れ人の処置については253-33に詳しく、まず大坂町奉行所に知らせて検使を遣わしてもらうとともに、村方・番方・医師による「口書」が作成されたようである。一方、行き倒れ人には点野村だけではなく近隣の葛原村や木屋村の医師によって治療が施されたている様子が窺える。(252-50・55・78、253-11・12など)そのほかにも、止宿して不法を致す虚無僧などが点野村に流入するという問題も抱えていた。(252-64)
文書紹介
ここでは①堤の普請・修復、②下屎の活用、③守口宿への助郷について紹介する。
・堤の普請・修復
国役堤については、享和3年(1803)、文化6年(1809)、嘉永元年(1848)、慶応4年(1868)に大きな普請・修復がなされている。文化6年のもの(御助け普請)を除けば、洪水に伴う普請である。洪水によって破壊された場所を修復するだけではなく、荒地を田地にしようというものも行われている。
享和3年の申状によれば、それまでの堤普請も国役によって普請されていたが、「省略」が多く、最低限の繕いであったために堤が弱くなっていること、また、淀川の河口近くで新田開発が行なわれたために水勢が弱くなり、川床に砂が溜まるようになったことなどが原因であると主張している。(183-4)これらの上申は当然ながら、それ以外にも堤や川の管理なども近隣の村々と協同で執り行われていることには注意すべきである。一方で、用水や樋路は村々にとって重要な問題であり、村同士での対立が生じる場合もあった。
また、定期的に淀川などの浚えを行なっており(194など)、淀川周辺の村がそれを担当していた。
・下屎の活用
点野村では大坂三郷の下屎を利用して農業を行なっていた。点野村周辺はたびたび水害も起こり、また、土地自体が痩せていたこともあって、凶作となることが多かった。252-63には、川縁りの田畑の土地が痩せているので、川底の土と入れ替えるということも行なわれている。
ともに天保14年(1843)に出された20-51、121-65によれば次のような相論があった。
まず、摂津・河内の田地は痩せているので往古より大坂三郷の下屎を用いて作物を作っていた。そのなかで「掃除人」という仲買人が関与するようになり、それを介して売買されるようになった。しかし、下屎の値段が高騰し、御取箇にも影響を与えるようになり、寛政年間に町割・家割を定め、点野村は備後町の下屎を利用した(121-89)。しかし、町方は別の場所にも売るようになり、下屎の価格が再度高騰し、難渋する百姓が増えた。20-51などの願書は領主に下屎の価格を引き下げるよう願うものであった。
また、寛政年間に一度、町割・家割を定めたとあるが、その際の申合書に関する史料が145である。
それによると、この仕法以前では相対で価格交渉をしていたが、さらに仲買人の登場によって次々と値段がせりあがったために、享保・元文のころに下屎の値段やその分量、さらには町割も取り決めたとする。この仕法により、値段も一旦は下がったが、町との相対の値段交渉がうまくいかず、町家一体の値下げを仰せ下されるように願い上げている。
その願書に添えられたとみられる書付によると、下屎は1荷が3匁3分3厘ほどであり、船で運送していた。その値段は当時の干鰯などと同様の値段であったが、次第に高値になり、寛政6年(1794)当時、既に干鰯よりも高値となったようである。
その願書によって申し合せ書が作られ、下屎の汲み取りに関する取り決めがなされた。ただし、願書では「掃除人」の差し止めを求めていたが、それは許されず、天保年間にも相論の種が引き継がれていったのだろう。
・守口宿への助郷
平凡社『日本歴史地名大系』によると、守口宿とその助郷は以下の通りである。
当地は豊臣秀吉による京街道の整備(文禄堤の築造)以前から交通の要地であったが、江戸時代に入って宿駅として指定されたことでいっそう重要性が増した。指定の時期は元和2年(1616)とみられる。
当宿の助郷は貞享5年に下番4ヵ村が付けられたのが始まりであるが、これは同年中に取消しとなり、元禄3年8月には8ヵ村(勤高3639石余)の定助郷が付けられた(『守口市史』)。しかしこれらの村の大部分は守口宿から遠方にあるため不合理であるとして、同7年2月に近隣の土居村・馬場村・世木村・大枝村・西橋波村、門真四番村・門真三番村(現門真市)の7ヵ村(勤高3832石)が設定された(守口地方宿方諸事録、享保10年「東海道守口宿助郷帳」同書)。次いで宝暦13年5月に和歌山藩主徳川氏の通行の節のみの助郷、すなわち加助郷高3000石(南十番村・北十番村・下島村・八番村・七番村・六番村・門真二番村の7ヵ村)が付けられている(同年「加助郷一件」同書)。天保6年先の定助郷村7ヵ村は困窮につき休役を願出、同年5月より10ヵ年間高655石余を除いて休役が認められた。その代替として仁和寺村(現寝屋川市)など11ヵ村が代助郷村(勤高3177石)に指定された(井上家文書)。この10年の期限が切れた嘉永元年(1848)10月には、20ヵ年の期限つきで南寺方村・北寺方村など31ヵ村が増助郷村(勤高6168石)に指定され(同年「東海道守口宿増助郷帳」守口市史)、さらに元治元年(1864)12月には当分増助郷村42ヵ村が設定された(同書)。慶応4年(1868)5月助郷組替えが行われ、守口宿も付属村と同様の扱いを受けることになり、明治3年(1870)3月の助郷制度の廃止まで高155石を勤めた(同書)。
点野村は天保6年(1835)から10ヵ年守口宿代助郷で、勤高200石(差上申一札之事「守口市史」所収)。嘉永元年(1848)から20ヵ年同宿増助郷で勤高143石(「東海道守口宿増助郷帳」同書所収)。慶応元年(1865)と推定される丑年に、守口宿助郷惣代から同村にあてられた同年7月から10月までの助郷割は銀4貫111匁余(寝屋川市誌)であった。(平凡社『日本歴史地名大系』)
以上の助郷の役目は点野村文書からも確認できる。214によると、天保6年(1835)からの10ヶ年守口宿助郷の年季明けにあたる天保15年(1844)に、助郷の休役を願ったが許されておらず、215からは嘉永元年(1848)に再度の助郷を命じられている様子が窺える。また、天保11・15年には助郷寄人足が点野村から差し出されている。(216-13・16)
興味が惹かれるのは、215にて助郷の決定までの手順の一端が窺えることである。それによれば、はじめは助郷の村々として44ヶ村が村柄の調査が行なわれており、その見分・吟味の結果、点野村を含む6ヶ村に助郷が勤めることになったようである。また、宿方に川を隔てている村は、川で洪水が起こった場合には、他の村にて助郷を勤め、のちに勤め埋めをするという規定もある。
そもそも、助郷は役懸りの村々で順番に勤めていたが、その順番の節に居合わせなかった場合には、無賃の上、村方から郷中へ1人につき1匁ずつ支払うべきとの規定があり、一方で順番ではない時に勤めることに対しても罰金が科されるなどの規定もあった。(216-10)
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)