村上家文書


摂津国八部郡花熊村村上家文書解題

花熊村(現神戸市中央区)の庄屋を務めた村上家に残された文書(「村上家文書」)は、現在、神戸大学附属社会科学系図書館に収蔵されている。

この文書はいくつかの研究に活用されており、著名なものとしては新保博『封建的小農民の分解過程―近世西摂津菜種作地帯を中心として―』(新生社、1967年)が挙げられる。そして、新保著書の巻末には「摂津国八部郡花熊村村上文書史料目録」と村上家文書の解題が掲載されている。その解題は以下の通りである。

「ここに収録する史料は、摂津国八部郡花熊村において、天明末期から明治初期にいたるまで庄屋役をつとめていた村上家に所蔵されていた文書である。この文書は村上家から神戸大学に寄託され、現在神戸大学附属図書館六甲台分館に整理・架蔵されている。
 村上文書は、以下にかかげる文書目録から知られるように、村上家が庄屋役についた天明期以降の文書がその大半を占めており、それ以前については必ずしも多いとはいえない。しかし、村上文書は総点数三、〇〇〇をこえており、八部郡のほとんどが明治以降神戸市の市街地として発展していったためもあって、八部郡地方ではこれほどまとまった村方史料は存在しない。この文書の特徴と思われる点を列挙すれば、つぎのとおりである。
 一 徳川前期についての史料は数点をかぞえるにすぎないが、名寄帳(「指出帳」という表題をとっている)は農民構成や農民の相続形態について知らせてくれる重要な史料である。
 二 免定・皆済目録・宗門帳などについては、天明期以降明治初年にいたるまでほとんど欠けることなく存在している。
 三 村入用関係についても、とくに幕末期に関してまとまった史料がのこされている。
 四 菜種流通および国訴関係の史料は数が多くないが、従来知られていない史料がのこされている。
 五 農業経営・小作関係についての資料をほとんど欠いている。
 六 名刹再度山大竜寺に関する史料が大量にのこされている。」 (原文ママ)

この解題のあとに村上家文書の目録が掲載されているのだが、そこに掲載されている目録は一点ごとの目録ではなく、関連文書を一括した形で列記したものであった。また、目録に史料番号が付されていないなどの問題もある。そのため、村上家文書の全貌を明らかにすることも兼ねて、再度、村上家文書の整理を行い、現在の架蔵されている順番に一点ごとの目録を作成した。

村上家文書の来歴

神戸大学附属図書館の『図書購入原簿』によると、村上家文書の大部分は村上家から寄贈されたものであることがわかる。しかし、それだけではなく、ほかの経路からも集積されている。

①昭和26年(1951)12月15日付「太田幸子納」 太田幸子氏から購入されたと考えられるグループ(宗門改帳・明治期の戸籍など一部。約100点)
②昭和33年(1958)2月10日付「村上佳子寄贈」 当時の村上家当主と思われる「村上佳子」氏から寄贈されたもの(大部分)
③その他
・昭和47年(1972)12月15日付「雑件」 (諸願届書上控帳118、御物成御下札215など約50点)
・昭和63年(1988)9月29日付「寄贈」 寄贈者の情報なし。(家数人数増減改帳391など4点)
以上のように、いくつかのルートから寄贈・購入された史料によって神戸大学附属図書館所蔵の村上家文書が構成されている。

また、神戸大学に寄贈される以前には、村上家文書が『神戸市史』(神戸市、1921年~)の編纂に用いられていた(『神戸市史』の出典史料に「村上五郎兵衛」(村上家の当主)所蔵文書が記されている)。

そして、『神戸市史』出版に伴い、大正9年(1920)5月21日から25日まで湊川勧業館にて神戸市史編纂事業のなかで蒐集された史料を公開する「神戸市主催神戸市史資料展覧会」が開催されたのだが、そこでの出品物を記した『神戸市史史料展覧会出陳目録』(神戸市役所、1921年)によると、「花隈町」の「村上五郎兵衛」所蔵の史料計66点が出品されていたことが確認できる。

具体的には「山盗人證文 寛永十五年三月廿五日葺屋庄福原庄山論祐庵仲裁状」(578)、「永借證文 寛永十四年三月廿三日日損につき塩ヶ原新築池床借入」(537、766-5)、「兎原八部両郡堺極状 文禄三年十一月十日矢田部郡百姓宛のもの」(766-6)などであり、これらは現在、神戸大学附属図書館収蔵の村上家文書のなかに伝来している。村上家文書のなかには「神戸市主催神戸市史資料展覧会」という付箋が貼られているものがみられるが、それは展覧会に出品されていた史料であることを示している。

地域

村上家は花熊村の庄屋であった。

まず、『日本歴史地名大系』(平凡社、1979年)から花熊村について概要を示しておきたい。

花熊村とは、現在の神戸市中央区花隈町・北長狭通5丁目・下山手通4~6丁目・中山手通4~6丁目を領域とした村であり、二茶屋村の北、六甲山地南麓段丘上に立地する。慶長国絵図に花熊村とみえ、高288石余。もと幕府領であったとみられるが、慶長19年(1614)大和国小泉藩(片桐貞隆)領となる(「貞隆公領知加増年記」杉原家文書)。元和3年(1617)の摂津一国御改帳では高288石余。享保20年(1735)の摂河泉石高調では高291石余。明和6年(1769)より摂津灘筋諸村が収公され幕府領となった(「辻六郎左衛門預り所成村々覚」鷲尾家文書)。天保郷帳では高294石余。元禄3年(1690)の矢田部郡内家数人数等書上帳(西宮神社旧蔵文書)によると家数50・人数344。明和6年の村明細帳(村上家旧蔵文書)によれば竈数77・人数319、牛45、小酒屋1、輪替樽屋1、賃糀屋1、紺屋1、屋根葺屋1、農間稼に男は柴草刈と酒屋稼、女は木綿つむぎと雑菜摘みに従事。明治5年(1872)花熊町と改称。

なお、明治7年(1874)の段階では、村上五郎兵衛(村上家当主)は下山手通6丁目に居住していた。

花熊村の所在地は現在の神戸市の中心部にあたっている。また、花熊村の所在地にも開港に伴う変化が及んだため、近世の面影を残すものは多くは残されていない。ゆえに、村上家文書は近世における神戸地域の村方のあり方を明らかにできるという点で貴重な史料であるといえよう。

文書群

村上家文書は、総5742点。文禄3年(1594)から明治21年(1888)までの史料がある。近世後期の史料が多く、明治時代の史料は比較的少ない。

次に、村上家文書の内容としては、村政に関わる史料が多くみられる。花熊村の明細帳や名寄帳、免定・皆済目録、宗門人別改帳、人別送状・請取状などがあり、明治時代になると、地券や地租に関する文書も多く残されるようになる。免定・皆済目録・宗門帳などは、新保氏が既に指摘しているように、天明期以降明治初年にいたるまでほとんど欠けることなく残存している。

そのほか、いくつかの項目ごとに村上家文書の史料を紹介していきたい。

年貢・廻米

花熊村の年貢は兵庫港から京都、または江戸への運送されていく。その廻米方式に関する訴状がみられる。江戸での納め方の変更を訴えたものや(105-1)、江戸廻米を浅草御蔵に納めるが不足分が有り、吟味を受けたというものもある(186)。
また、京都に運ぶ場合も、車引きから高瀬舟運送への変更を願う嘆願書がある(189-6)。

村内の生業

・菜種稼ぎ
文化2(1805)に油稼ぎ人の中間目代設置により買い取り価格下落により困窮。その後、中間目代は廃止されたが、文政10年(1827)ころ名代が設置され、それにより百姓が困窮していたという(476)。

・その他
酒造の冥加銀に関する訴状がみられるほか、藍玉・線香・髪結い・木挽の存在も確認できる。

寺社

・再度山大龍寺は後述

・花岡山福徳寺(浄土宗) 知恩院末寺
花熊村内に所在(現神戸市中央区花隈町15-3)。明治5年(1872)の段階で境内3畝。檀家105軒(723)
寺の管理・修繕に関する文書が多く残されている(630など)。花熊村・神戸村・中宮村は同じ谷筋の水を分け合っていたが、その用水の切り替えは福徳寺の梵鐘の音を目当てにして行われていたという(541)。
また、本山知恩院とのやりとりに関する文書もある。本山での僧侶の昇進などがあると、祝儀の献上が命じられるが、その際は、同じく知恩院末寺である東福寺(奥平野村)、長福寺(夢野村)、霊山寺(石井村)、願成寺(烏原村)といった近隣の寺とともに命じられている(639-6、732)。
そのほか、福徳寺が詞堂銭の貸借を行っていたこと(633-1)、近世末~明治初には、外国人の宿所として福徳寺が利用されていたこと(637)がわかる。

交通

・助郷
宝暦12年(1762)や文化5年(1808)の朝鮮人来朝(185-2、185-12)や、元治2(1865)長州征討のための「尾張大納言様」(徳川慶勝)の芸州下向(552)に際し、助郷が行われている。

・外国船
明治2年(1869)、長崎や横浜などへ渡航する外国船(米国船ニウヨロク号、英国船ヲタコ号など)への乗船を願う申入状がある(547)。

水利

・溜池と用水路
村上家文書のなかには深谷池・猩々池・井垣池・塩ヶ原池などの溜池がみえる。深谷池は、享保13年(1728)に花熊村・神戸村・宇治野村・中宮村が相談の上、字深谷に普請された新池であった。
また、川筋から溜池への用水路には水車が建設されており、米搗き・製粉が行われていた。ただし、田地用水を兼ねていたため、2月から9月の期間は水車稼ぎが停止していたという(521-15)。なお、字再度谷水車場麁絵図(780-1)によると、福原庄立会の草山を通る再度谷に11箇所の水車場があり、川下から、1番二茶屋村橋本善右衛門、2番宇治野村、3番花熊村、4番中宮村、5番神戸村善四郎、6番二茶屋村、7番神戸村、8番北野村、9番花熊村、10番二茶屋村、11番神戸村という割当てであったことがわかる。
そして、村上家当主の村上五郎兵衛が水車稼ぎに携わっていたため、水車稼ぎの史料は明治年間まで残されており、水車営業組合設置の請願(574-56)や値上げ請願(574-55、574-58)がみられる。なお、村上家文書のなかに明治期の水車鑑札の実物も残されている(574-29)。

山野

・山論 特に福原庄と山田庄の中一里山争論 (後述

・境争論 八部・兎原郡の郡境争論 (後述

近代

明治5年(1872)兵庫神戸両港の繁栄が事務を繁多となったので、従前の区分を改正するという史料がある(438)。開港による神戸地域の急速な発展が窺えよう。また、小学校(104-3)・牢檻懲役所(262-1、426-1)・警視所(262-1)・神戸第一区会議所(163-1、262-3)などの建築が行われている。そのほか、この周辺で外国人による借家(443)もあったようである。

文書紹介

福原庄としての活動

この地域の特徴として「福原庄」という村落結合の存在がある。福原庄は北野村・宇治野村・神戸村・花熊村・二茶屋村・中宮村という近隣六ヶ村によって構成されている。村上家文書をみる限り、福原庄の活動は、大きく分けて、水利(池溝の普請・争論)、入会山の管理、大龍寺の管理に分類できる。これらの運営・管理のために六ヶ村の会合が行われており、その招集を命じる廻状や負担の割賦が村上家文書に多く残されている。

・葺屋庄との争論

葺屋庄は福原庄の東に位置し、生田村・熊内村・筒井村・中尾村・中村・脇濱村によって構成されている。葺屋庄と福原庄の間には、塩ヶ原の新池に関する争論(766-5)、山論争論(773-6、773-9)、郡境目争論(781-3、781-4)が生じている。
ここでは境目争論についてみていくことにしよう。
まず、兎原郡と八部郡の境界は文禄3年(1594)の太閤検地実施に際して問題となっており、検地奉行の片桐且元と浅野長吉は生田川を境界として、田畑・山林・河原とも分けると定めている。
しかし、その後、享保2年(1717)に兎原郡側の葺屋庄村々と八部郡側の福原庄村々との間で入会山の境界をめぐる争論が起き、再び郡界が争われた。この争論は同11年(1726)に生田川大井手から上手は城山峰通から境松を経て川筋の西縁に戻る線を境界とすると定められている。

・丹上山田庄との争論

また、福原庄の北には丹生山田庄(東小部村・西小部村・藍那村・衝原村・中村・西下村・東下村・原野村・上谷上村・下谷上村・坂本村・福地村・小河村)があり、中一里山をめぐる争論が行われている。
中一里山とは、有馬郡境から播磨国堺までにわたる東西に細長い山地である。明治の中一里山の絵図(786-5)によると、再度山-摩耶山を結んだ東西のラインが中一里山の南端、東小部・西小部村の少し南方にある塚が中一里山の北端を示している。福原庄と山田庄のあいだに位置する山地である。
福原庄と山田庄との間にあるため、その利用については争論が生じていた。そのため、慶長9年(1604)に、奥一里山(中一里山の北)は山田庄、口一里山(中一里山の南)は福原庄の知行を認めた上で、「中壱里は山田庄内であるが、福原庄が山手(山年貢)を出しているので、福原庄の知行を認める」と裁定された(766-8)。つまり、中一里山は山田庄内にあるものの、その利用は福原庄に認められたのである。
その後も争論が繰り返されているが、延宝6年(1678)に行われた検地(768-26)によって、南麓の村々の負担額が決定し、山田庄がそれを集めて上納するという形で決着したようである。
しかし、明治時代になり、中一里山の地券をめぐって争論が再燃する。山田庄と兎原・八部両郡38ヶ村の争論という形をとるが、兎原・八部郡は、中一里山の年貢を納めているのは兎原・八部郡の村々であるため、兎原・八部郡の村々に地券が下されるべきと主張し、山田庄方は、兎原・八部郡の年貢上納は小作にすぎないのであって、中一里山を所有している山田庄に地券が下されるべき、と主張している(768-28)。
最終的には兎原・八部郡の主張が認められているのだが、この争論に関する史料は山田庄の方にも残されており、「山田出張所旧蔵文書」として神戸市文書館に架蔵されている。「山田出張所旧蔵文書」と合わせて検討することで、相互の詳細な主張や山林の利用と地券の関係などが、より明らかにできるだろう。
また、郡境目争論や中一里山争論は、『新修神戸市史 歴史編Ⅲ近世』(神戸市、1992年)および『同 産業経済編Ⅰ』(神戸市、1990年)でも紹介されている。併せて参照いただきたい。

再度山大龍寺

大龍寺について『日本歴史地名大系』に記述がある。

六甲山地西部の再度山中にある。再度山と号し、東寺真言宗。本尊は如意輪観音。「伽藍開基記」によれば神護景雲2年(768)和気清麻呂が開基、摩尼山如意輪堂を建立。延暦23年(804)空海が参堂、帰朝後にも駐錫して密法を修した。観応2年(1351)赤松範資の援助で善妙が中興。戦国期に再び衰壊したが、寛文年中(1661~73)賢正が再興したという。近世には福原庄内六ヵ村立会で維持された。元禄7年(1694)の伽藍本尊記(村上家旧蔵文書)によれば、本堂・護摩堂・祖師堂・方丈・奥院(弘法大師堂)・鐘楼堂・大門があり、本尊の如意輪観音は行基作という。享保10年(1725)の略縁起(同文書)によれば帰朝後の空海が再登山してから、再度山大龍寺と名付けられ、善妙が後円融天皇の悩みを癒やして勅願寺となった。海上渡航の守護、福寿増長・愛子授与の願をかなえる寺として参詣されたという。「摂津名所図会」は、3月18日の観音会には四方の道俗が群参すると記している。木造菩薩立像(伝如意輪観音像)は像高180・4センチ、檜の一木造、一部に乾漆をまじえる奈良時代の作で国指定重要文化財。

付け加えると、永和年間(1375~79)の後円融院の御代に、東寺の碩学善妙上人が再興し、境内八町四方の勅願寺となったともされている(719-1)。

まず、大龍寺は無本寺であり、明治5年(1872)の段階では大龍寺境内は、32町9段余、檀家なしであった(723-13)。

大龍寺の管理を行っていたのは福原庄6ヶ村であるが、6ヶ村のなかでも花熊村が大龍寺の寺元とされ、花熊村庄屋が本尊の鍵・寺判・諸書物を管理していた(720-19)。このような背景があったからこそ、多くの大龍寺関係の文書が村上家文書のなかに残されていたのだろう。
一方、大龍寺には看坊(住持)が在住していた。大龍寺は福原庄から10町余も隔たっていたため(720-20)、大龍寺現地の管理は看坊に任されていたと考えられる。看坊が大龍寺に入院する際には福原庄と入院證文を取り交わしているが、そこでは、看坊に仏閣・僧坊などの修覆・建立で庄内に役害をもたらさない、什物を失わない、山林竹木などは猥りに刈らない(もし必要があれば、庄内の指図を受ける)、庄内が気に入り申さざれば、一言の子細もなく出寺することを入院者に約束させている(682-1)。

そして、入院證文などから歴代の看坊とその身元を列記したものが表「大龍寺看坊」である。

大龍寺中興の祖である実祐以降、賢正・寛盛・鏡映と尼崎大覚寺の僧侶が大龍寺看坊となっていた。鏡映は寺役の懈怠・山林の利用をめぐって福原庄と対立しているのだが、その様子は719-1・719-10に詳しい。

それによると、病気となった鏡映は大龍寺看坊の退任を福原庄に申し入れ、大覚寺は鏡映後もこれまで通り大覚寺僧を住持の後任に送り込もうとしていたが、福原庄の庄屋百姓が大龍寺へやってきて、什物を返却すべきことと後住の任命は村が行うことを申し、さらには本尊の戸帳を持ち去ったという。その後の経過はよくわからないが、最終的には福原庄の言い分が通り、大覚寺僧ではない玄海が大龍寺へ入院することになる。

この争論のなかで、福原庄と鏡映(大覚寺)の間に大龍寺をめぐる見解の相違がみられる。

第一に、焼失していた大龍寺諸堂の再建について、福原庄は庄内として諸堂を再建したと主張しているのに対し、鏡映は実祐が青山大膳亮様に御願い申し上げ、実祐・賢正・寛盛・鏡映の四代で再建したと主張している。第二に、大龍寺住持(看坊)については、代々尼崎大覚寺より就任すべきものとして鏡映(大覚寺)が認識していたのに対し、福原庄は一代切りの契約であり、住持は大覚寺に限らないと主張している。

大覚寺からみれば、大龍寺を再建したのは大覚寺なのであり、ゆえに大龍寺の住持に大覚寺僧が就任するのも当然だと考えられていたのだろう。それに対し、福原庄による鏡映の追放は大覚寺の影響力を排除することになった。このような過程が福原庄による大龍寺運営の基礎となっているのだろう。

次に、一真の事例から福原庄と看坊の関係についてみていきたい(721)。

まず、安永2年(1773)に大龍寺看坊として入院した一真は、同6年(1777)ころに、大龍寺で山科中納言様の祈願を行ったとの嫌疑をかけられている。その祈祷は近衛様の女御様御懐妊を祈るものであったとされる。

それに対し、福原庄6ヶ村は一真が本尊の扉を開いて祈祷を行ったことを問題視していた。大龍寺の本尊の鍵は6ヶ村(具体的には花熊村)が保管し、必要な時ごとに看坊が借りていたのだが、一真は以前に借りた鍵を返さずにそのまま所持していたのだという。(福原庄の管理も弛緩していたものの)祈祷の行使までもが福原庄の管理下に置かれていたことが明らかとなろう。

このような福原庄6ヶ村による大龍寺の管理は明治時代になっても続けられていたが、明治5年(1872)11月、無檀・無住寺の廃止命令が出される。これに対し、無檀である大龍寺は廃寺を回避するため、明治6年(1873)、西京大覚寺の末寺となっている(724)。

おわりに

この解題で紹介できなかった史料のなかにも、多様な内容を持つ史料が多くある。また、史料が大量にあるために、本解題作成に際し、関連する史料のすべてを組み込めたわけではない。村上家文書の利用とそれによる研究の発展を期したい。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)

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