伊賀村文書


河内国丹南郡伊賀村文書解題

文書群

「伊賀村文書(西山家文書)」は伊賀村の庄屋を務めた西山家の文書である。『図書受入原簿』には、昭和34年3月20日に「小林秀雄」から購入したと記されている(この時に「久宝寺屋文書」「点野村文書」も購入されている)。小林秀雄は大阪梅田の古書店・萬字屋書店の店主である。

伊賀村は現在の羽曳野市伊賀にあたり、高451石余、山年貢高8斗余であった。元和9年(1623)に丹南藩領となり、以後、宝暦8年(1758)に幕府領、安永6年(1777)頃に常陸笠間藩領、幕末には幕府領となった。元文5年(1740)の家数は97であり、竹内街道が近くを通るためか、村高のわりには稠密な地域となっていた(以上、『日本歴史地名大系』参照)。

「伊賀村文書」は全1079点であり、慶長19年(1614)から大正9年(1920)までの史料が残されているが、なかでも18世紀頃の史料が多く残されている。

内容としては、伊賀村の村政関係文書が中心であり、宗旨送り状や年貢の検見・年貢免除、さらには溜池・埴生野新田などに関するものもある。また、西山家は藤井寺村の真言宗御室派剛琳寺(藤井寺)の肝煎檀徒であり(「伊賀村文書」№351-1)、御室御所(仁和寺)の人物との書状もある。そのほか、西山家の家屋の普請に関する史料や、小作人雇いに関する史料もある。

なお、「伊賀村文書」のなかには、理由は不明ながら、天保10年(1839)から慶応2年(1866)まで(欠年あり)の河内国讃良郡灰塚村(現大東市)の宗門御改帳や家別人別増減帳、五人組帳もある。

また、伊賀村庄屋の所見は[]の通りであり、西山家が1720年代から1830年まで代々庄屋を務めていたことがわかる。1830年以降、西山庄右衛門を名乗る人物が伊賀村にいたことは確認できるが、西山家の人物が庄屋を務めた徴証は確認できない。18世紀の史料が多い=19世紀の史料が少ないのは、そのためと考えられる。

「伊賀村文書」を用いた研究としては、李東彦「幕末期河内国における一地主経営―河内国丹南部伊賀村西山家を中心に―」(『六甲台論集』29-4、1983年)、福澤徹三「地域金融圏における地域経済維持の構造」(同『一九世紀の豪農・名望家と地域社会』思文閣出版、2012年)が確認できた。また、「伊賀村文書」は『羽曳野市史』にも利用されており、『羽曳野市史 第五巻 史料編3』(羽曳野市、1983年)には「神戸大学附属図書館所蔵 西山家文書」として一部が翻刻されている。

文書紹介

埴生野新田の開発

「伊賀村文書」には埴生野新田の開発に関する史料が多く残されている。埴生野新田とは伊賀村の南部の埴生野山、または羽引野原に開発された新田であり、享保年間(1716~36)から開発が計画されていたようである。しかし、伊賀村としては埴生野新田開発には反対していた。「伊賀村文書」№177-1(以下、「伊賀村文書」は№のみ記す)では、その反対理由として、伊賀村が山方の年貢を上納していること、新田開発を行った場合、山内にある伊賀村の溜池に土砂が流入し、用水に差し障りが生じることを挙げている。さらに177-2では伊賀村百姓が新田開発の願人に対して一切協力しないことを誓約している。

だが、寛延元年(1748)11月、埴生野山が手塚采女によって開発されることことになった(184-53,184-54)。開発請負人の手塚采女は、開発にあたって用水に支障を起こさないよう誓約し、その一札の写を伊賀、平尾・小平尾・菅生の四ヵ村に提出している(184-66)。しかしその後、手塚采女は「石川郡掛り合ニ而御咎ヲ請」け、新田開発が「永々混乱」したとされ(286-24)、手塚采女に代わって平野屋又兵衛が開発の請負人となっている(288)。

また、伊賀村は新田開発が始まった後も、開発人への妨害を繰り返し行っていたようである(184-42)。

西山近兵衛の庄屋役休役

「今西和夫氏文書(今西家文書)」(9-29-1。今西家文書の番号は『羽曳野市史』の資料番号)によると、文政7年(1824)3月、伊賀村の百姓は、庄屋近兵衛が若池を百姓との相談なしに質物としたことを問題視し、このような庄屋に年貢を差し出すのは心元ないとし、近兵衛の休役を訴えた。

さらに、庄屋と村方の対立は若池の質物だけではなく、文政5年(1822)の水論への対応からも生じていたようである。文政5年の水論とは埴生野新田との争論であり、その結果、伊賀村の溜池が堰留められることになった。ここで重要になってくるのは、西山家における溜池開発の由緒である。西山近兵衛が主張するように、伊賀村の溜池は西山とほか二軒(今西家・長井家)が造営を企てたものであり、毎年四月中旬に樋祭りが行われ、西山家は饗応を請け、また、優先的に用水を用いていた。しかし、争論によって溜池が堰留められた後は、百姓による樋祭りも行われなくなった(41-1)。百姓としては溜池の水を利用していない以上、樋祭りを行う必要はないと判断したのだろうが、西山家は百姓が樋祭りを行わないことを非難している。このような庄屋=西山家と百姓の対立が背景として、近兵衛の庄屋役休役が訴えられたのである。

百姓の庄屋役休役の訴えを受けた近兵衛は、庄屋役を養子の保之丞に継がせようとした(41-2)。実際、近兵衛は高齢であったようで、文政5年に近兵衛の子又兵衛が庄屋代勤をしていることが確認できる(184-51、292-1。ただし、その後、事情は不明ながら又兵衛は西山家を出たようである。86参照)。文政7年では庄屋役の休役については追って沙汰するとされており(86)、近兵衛は1830年まで庄屋を務めていたが、この一件を通して西山家が庄屋から離れたことは確かであろう。そして、それは溜池開発者である西山家が庄屋を勤めるという100年以上続いた伊賀村のあり方を変えるものであった。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)

[表]「伊賀村文書」における庄屋所見

  名前 所見
  小兵衛 1664~1683
  伊兵衛 1685~1722、1726
庄右衛門 1723、1727~1745
  伊左衛門 1746~1751
庄右衛門 1751~1778
  長右衛門 1780
庄右衛門 1780~1790
近兵衛(金兵衛) 1792~1830
  甚五兵衛 1859、1864
○は西山姓が確認できる人物を指す。

⇒デジタルアーカイブで『伊賀村文書』の目録を見る