この史料は、アメリカ人宣教医のジョン・カッティング・ベリー(John Cutting Berry、1847~1936年)によって著された『治験録』(1874年12月発行)である。
1847年にカナダとの国境に近いメーン州で生まれたベリーは、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアのトマス・ジェファーソン医科大学を卒業し、1872年に宣教医として神戸に派遣されてきた。神戸に到着したベリーは、はじめ「万国病院」(現在の神戸海星病院につながる)や、湊川神社の近くの「恵済院」で診療を行っていたが、翌年には神戸大学医学部附属病院の前身である神戸病院(この史料では「兵庫県病院」と呼ばれている)に移り、ここを拠点に西洋医学の普及に努めた。
さて、この『治験録』には、1973年3月から翌年7月にかけてのベリーの行動と、この間にベリーが診察した患者のうち数人の症例についての詳しい診断と治療の記録が掲載されている。これを見ると、この時期のベリーは、「恵済院」、「兵庫県病院」での診療のほか、有馬、三田、明石、加古川を訪問し、そこでも患者の診療を行っていたようである。詳しい診断と治療の記録は、このうち「恵済院」、「兵庫県病院」、そして三田で行ったものについてであり、有馬、明石、加古川については簡単な訪問と診療の記録だけが掲載されている。また、明石、加古川、姫路の医師たちに送ったと思われる文辞(「播磨姫路加古川明石之恵済院祝章」)も収録されている。
「兵庫県病院」については、1873年7月7日から翌年7月18日までのおよそ1年間に入退院した患者の記録(性別、年齢、職業、居処、病症、入院期間、治療結果の一覧)が、外来患者数(1603人)とあわせて掲載されていることが注目される。医学史的な評価は後学に俟ちたいところであるが、明治初期の宣教医の活動と地域の基幹病院の実態をうかがわせる貴重な史料であることはまちがいないであろう。
なお、ベリーは「兵庫県病院」在職中に理解ある日本人の協力を得て、解剖や、環境改善を目的とした監獄調査を実施した。これは、日本の医学史上、重要な出来事とされる。その後は京都や岡山などで活動。1893年に帰国して以後は母国で医師として活躍し、1936年にその生涯を閉じた。
(神戸女学院大学文学部 河島真教授 2020年3月)