日華新報


『日華新報』は神戸元町で1904年から1920年代まで発行された、中文和文の混じった新聞です。当館は1923(T12)年~1925(T14)年までに発行された22号分のみを所蔵していますが、確認できた範囲ではこれが唯一現存する資料です。(参考:可児弘明 [ほか] 編『華僑・華人事典』弘文堂 , 2002)

参考)「日華新報」に関する文献

柴田 清継 (2007) 西島函南 孫文研究 42, 30-41
柴田 清継 (2002) 西島良爾:神戸在住期の対中国活動:『日華新報』の初歩的考察を兼ねて 孫文研究 32, 19-45
外務省外交史料館 『日華新報関係雑纂』(国立公文書館アジア歴史資料センターの「資料の閲覧」よりタイトルで検索して内容を閲覧できます)

『日華新報』解題

川口 ひとみ(神戸大学人文学研究科社会動態専攻)

『日華新報』草創期の状況

『日華新報』は中国語と日本語で商業や貿易に必要となる日中の経済状況・政治状況などが記された新聞で、1923年4月25日発行の第869号から1925年4月20日発行の第891号まで第870号を除き神戸大学人文社会科学系図書館に所蔵されている。しかし、この新聞の草創期の状況を知るためには外部の資料に頼らねばならない。『新聞総覧大正四年版』(1915年)によると、発行回数は毎月3回、発行所は神戸市元町三丁目、持主・発行・編集・印刷者は品川仁三郎、創刊は明治35年(1902年)6月5日と記載されている。

さらに詳しい状況を知るための有力な資料としては、外交史料館所蔵の『日華新報関係雑纂』(請求記号B1-3-2、レファレンスコードB03040855700、全7頁。)がある。これは、1910年1月、牛荘領事太田喜平が当時の新聞『亜東報』に掲載された『日華新報』の購読者募集の広告に気づき、排日的記事掲載の有無を確認するために当時の外務大臣小村寿太郎に日華新報社についての調査を依頼し、それを受けた小村外相が平田東助内務大臣に同社についての内探を依頼した結果の報告書である。この内容については柴田清継論文(2002、2007)が詳しい。以下に発行所、所在地、関係者・関係紙、発行主旨、資本金、発行部数、維持方法の箇所を抜き出し記載する。

一 日華新報発行所
兵庫県神戸市元町通三丁目百三十五番地同社
一 支局所在地
東京青山南町三丁目五十三番地
清国上海美租界河南路楽善堂
一 発行ニ関係アル重立者
社長 品川仁三郎(神戸市元町通三ノ四三番地居住)
会計主任 同人
編輯主任 王 津(清国人)
東京支局主任 王蔭藩(清国人)
上海支局主任 岸田太郎(目下帰国中)
一 名誉賛成員
前駐日公使 李家駒
現任公使 故維徳
商約大臣 盛宣懐
公使館参賛 田呉炤
公使館通訳官 劉榮傑
前留学生監督 周家樹
現留学生監督 呉宋煌
神戸総領事 張 鴻
大理院推丞 王式通
一 発行ノ主旨
東亜ノ平和ヲ維持スルヲ目的ナリト云フ
一 本邦及本邦領土外トノ関係人士及新聞紙
東京 横浜 大阪 神戸 長崎等ニ居住スル清国商人及駐日公使館員ノ一部分ニ関係シ新聞紙ニ於テハ
上海時報 上海滬報 北京日報 北京国報 天津中国報 神州日報 全浙公報 広東嶺東報
盛京時報 哈爾濱遼東報 吉林日報 帝国日報 吉長日報
一 社員ノ氏名
呉傑 呉杏一 夏重民 広原寛之助 古谷東桜子
一 原稿寄贈者
清国公使館員 領事館員及留学生等ナリ
一 資本金ノ出所及其額
資本金約五千円
 但シ一般ニ壱万円ト称シテ居ル由
駐日公使館領事其他同国官吏ノ支出ニ係ルモノトス
(兵庫県知事ノ報告ニ依レハ資本主品川仁三郎ニシテ資本金五百円トアリ)
一 発行部数及発売頒布区域
毎月六回発行シ一回ノ発行部数平均二千部ニシテ大部分ハ上海、香港、天津、牛荘、漢口等ナリ其他ハ在留清国商人官吏学生及仏国米国等ニ於ケル清国留学生ニ販売スト云フ
一 維持方法
新聞紙及広告料等ノ収入ニ依リ維持シ社運隆盛ナラサルモ将来永続ニ発刊スル模様ナリ

創刊年月日については他の資料によって細かい期日のずれがあるが、同報の創刊は明治35年(1902年)6月中旬と考えるのが妥当である。発行頻度は平田内相の報告によれば「毎月六回発行」であったが、同報のリストを見ると大正12年(1923年)4月頃にはすでにほぼ1月1号の発行ペースになっていたことが確認できる。『新聞総覧』大正三年、四年、六年、十年、十二年版によれば「毎月三回発行」と記載されている。紙面を確認できる大正12年(1923年)4月以降のものを見ると『新聞総覧』の記載内容が必ずしも正しいとは言えないが、遅くとも大正3年(1914年)頃から徐々に発行頻度が落ちていったことがわかる。

紙面の構成と内容

第890号(大正14年(1925年)3月20日)を除いて、他はすべて第一面が中文頁(毎号2~3頁)、次に日文頁(約5頁)、そして広告頁(約4頁、新年号は20頁)の構成となっている。

内容については、1910年に日華新報社から発行された品川仁三郎編『日本商工須知』巻末の『日華新報』についての広告が参考となる。それによれば、本報は日本唯一の漢字新聞であり、中日貿易を拡張し、東洋の平和を永遠に維持しようと望む人々が利用すべきものであること、その方面の事業に携わる人々の参考に資するため、中日両国の商務を細大漏らさず載録し、また、留学生にとっても役に立つものであるという。

紙面をみてもその内容は、一貫して商業や貿易に必要となる日中の経済状況・政治状況に重点がおかれていることがわかる。しかし、見出しの命名は統一されていない。例を挙げるならば、号によって華文欄に「日本近聞」「中国近訊」「日本商工要訊」等、日文欄に「海外商報」「外国商況」「日本商情」等の見出しが立てられている。このような中、「大阪市役所商工課貿易調査報告」については、第888号(大正14年(1925年)1月25日、新年号)を除いて毎号欠かさず掲載されており、『日華新報』と大阪の商工業者との密接な結びつきがうかがえる。

鴻山俊雄(1979)はその後の『日華新報』について、「日華新聞として引継がれ、さらに昭和八年亜細亜経済新報と改題し、同十五、十六年まで発行が続けられていた」とするが現在のところ未確認である。

参考文献

1. 鴻山俊雄『神戸大阪の華僑―在日華僑百年史』(華僑問題研究所、1979年)。
2. 柴田清継「西島良爾神戸在住期の対中国活動―『日華新報』の初歩的考察を兼ねて」(『孫文研究』第32号、2002年、第19-45頁)。
3. 柴田清継「西島函南」(『孫文研究』第42号、2007年、第30-41頁)。
(2012年4月公開 Copyright (C) 2012 Kawaguchi Hitomi)

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