湯浅家文書


湯浅家(大黒常是)文書解題

文書群

「湯浅家文書」は、江戸時代において銀座の歴代銀吹極および銀改役を務めた湯浅(大黒)家の文書である。江戸時代の湯浅家は京家と江戸家に分かれていたが、幸田成友「大黒常是考」(『東京商科大學研究年報 經濟學研究』1、1932年。のち『幸田成友著作集 第2巻』中央公論社、1972年収録)掲載の大黒常是両家略系によると、「湯浅家文書」は江戸家の文書であったことがわかる1。

「湯浅家文書」は、既に幸田成友「大黒常是考」によって紹介されているが、幸田氏の紹介は「湯浅家文書」全点の紹介ではなく、また、幸田氏が記した文書番号は現在の文書番号とは一致しないところがある。そのため、改めて「湯浅家文書」の整理を行うことにした(なお、以下の文書番号は本整理で着け直した文書番号を用いている)。

「湯浅家文書」の点数は計138点である。慶長16年(1611)から明治28年(1895)までの文書があり、そのなかでも17世紀の文書が多いという特徴がある。また、「湯浅家文書」のなかには銀座関係の史料のほか、湯浅武(湯浅家の子孫。後述)が銀座についてまとめたノート(№64-1など)も残されている。

来歴

幸田成友「大黒常是考」には、湯浅家の江戸家の文書である「湯浅家文書」が神戸大学に所蔵されることになった経緯も記されている。幸田成友の経歴(「幸田成友著作目録」、『幸田成友著作集 別巻』中央公論社、1975年)とあわせてまとめると、以下の通りになる。

昭和3年(1928)3月、東京商科大学(現一橋大学)の商学士湯浅武が家蔵の史料を利用して卒業論文「銀座考」を執筆する。「銀座考」執筆に際して幸田成友は湯浅武の質疑に応じ、追って「銀座考」と「湯浅家文書」を閲覧する許可を得る。だが、幸田は「湯浅家文書」を閲覧しないまま、昭和3年(1928)年3月、文部省在外研究生としてヨーロッパへ留学。
昭和5年(1930)1月、湯浅武死去。湯浅武の「同窓竹原商学士」の尽力によって「湯浅家文書」が神戸商業大学(現神戸大学)の図書館へ移される。
昭和5年(月不明)、幸田成友が帰国。その後、幸田は「今度神戸商業大学図書館の好意により、湯浅家の史料を借覧して」、「大黒常是考」を執筆(昭和6年(1931)12月成稿。昭和7年(1932)5月発刊)。

つまり、湯浅武が卒業論文執筆のために用いた家蔵の史料(「湯浅家文書」)が、湯浅武の死後、「同窓竹原商学士」によって神戸商業大学(現神戸大学)へと持ち込まれていたのである2。

そして、「湯浅家文書」を神戸大学に持ち込んだ「同窓竹原商学士」は、東京商科大学の『東京商科大学一覧 昭和5年度』などの「昭和三年三月学士試験合格(二百五十四人)」のなかに湯浅武とともにみえる「竹原寅之助」に該当する3。竹原寅之助は、昭和3年3月に東京商科大学を卒業した後、神戸商業大學商業研究所の雑誌『国民経済雑誌』に論文を執筆しており(初見は昭和4年(1929)5月(65-5号)、終見は昭和12年(1937)10月(63-4号))、『神戸商大新聞』にも記事を執筆している(「日本の人口問題に関する一管見」、第85(301)号、昭和12年7月10日)。したがって、竹原寅之助は、東京商科大学卒業後に神戸商業大学にいたことがわかる(ただし、立場は不明)。神戸商業大学にいた竹原寅之助が「湯浅家文書」を引き取ったために、神戸商業大学(神戸大学)の図書館に「湯浅家文書」が収蔵されることになったのである。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)

1. 「湯浅家文書」の系図(№8)には常最までしか記されていない。そのため、幸田成友「大黒常是考」の大黒常是両家略系に載せられている常最―常安―徳次郎―透・智・武という流れは「湯浅家文書」からはわからない。大黒常是両家略系に常最以降の子孫が記されているのは、幸田氏が湯浅家に対して聞き取り等を行ったためであろうと思われる。
2. ただし、神戸大学社会科学系図書館の『図書受入原簿』では、「湯浅家文書」の受入年月日は昭和40年(1965)12月20日、受入事由(購入した書店などの記載覧)は「雑件」とされており、備考に「湯浅武」と記されている。受入事由の「雑件」の意味は不明であるが、昭和5年(1930)頃に神戸商業大学(現神戸大学)の図書館に入ったものの、その時には図書として登録されておらず、昭和40年になってから『図書受入原簿』に登録されたのではないかと考えられる。
また、神戸大学社会科学系図書館には、湯浅武が東京商業大学に提出した卒業論文『銀座考』(請求記号5-5-223)が所蔵されている。この『銀座考』は「神戸商業大学」の原稿用紙に手書きで筆写されており、神戸商業大学の人物が東京商科大学に提出された卒業論文『銀座考』を筆写したものとみられる。『図書受入原簿』によると『銀座考』は昭和6(1931)年8月15日に納入されたとされているので、『銀座考』の図書受入は、「湯浅家文書」の収蔵と同時に行われたと考えられる。
3. 『東京商科大学一覧 昭和五年度』。また、湯浅武と竹原寅之助はともに大正14年(1925)入学であった。『東京商科大学一覧 昭和二年度』など参照。

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