西郷村文書


河内国若江郡西郷村文書解題

地域

西郷村(現在の行政区は八尾市本町1丁目・同5―7丁目・北本町1―4丁目・山城町1―5丁目にあたる)は長瀬川の右岸、八尾8ヵ村の北端に位置する。北は若江(現東大阪市)へ、東は高安を通って大和の信貴山・竜田方面への八尾街道が通る交通の要地。南西は寺内村。八尾8ヵ村のなかでは東郷村と並んで中世からの中心的村落であった。

若江郡に属し、「元禄三午歳諸事覚書記」(山本文書)に「河州若江郡八尾庄村々高之覚」とあり、当村について「一古検ニて五百石 西郷村、一同 弐百弐拾壱石六升三合 同村、一同 百石 同村」と記される。221石余は幕府領、500石は京都南禅寺金地院領。常光寺が金地院の末寺であったため、大坂の陣が終わった元和元年(1615)閏6月、幕府は西郷村のうち500石を金地院領とした(「本光国師日記」同月6日・15日条)。この金地院領については寛永7年(1630)までの年貢皆済帳(常光寺文書)が残るが、その後、時期は不明ながら幕府領となる。100石は、庄屋が管理する公儀の餅田100石を意味する。この餅田は庄屋の不正事件があってのち、翌8年から金地院の預地となり、その勘定は平野藤次郎代官所が行うことになった(「本光国師日記」同年8月2日条)。寛保3年(1743)の村差出明細帳(西岡文書)によると、幕府領778石余、金地院領108石余・同除地2石余、常光寺領17石余。元禄3年(1690)の家数106・人数565(「若江郡村々高付家人数寄帳」小川文書)。前記明細帳によると竈数135、人数男268・女276。寺は常光寺のほか西本願寺派興正寺末光専寺があり、産土神は牛頭天王宮で木戸村との立会。「河内志」「河内名所図会」は牛頭天王宮を栗栖神社の名で記す。(平凡社『日本歴史地名大系』を参照)

文書群

ほとんどの文書が明治以降のものであり、明治3年から11年くらいまでの初期に集中している。点数は100点である。内容は年貢についての書き上げや金銭の勘定、小学校建築に関するものなどがあり、特に金銭の貸し借りに関するものが多い。また、神輿の修復や神事の諸入用など、神事に関する文書も残っている。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)

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