山城国葛野郡下桂村風間家文書解題
地域
下桂村(現在の行政区は京都府西京区桂)…桂川右岸に位置。北は徳大寺、西は上桂・千代原、南は川島・下津林の各村に接し、東は桂川に面する。村内東部を西南方へ山陰道が横切る。村名は中世の下桂庄にかかわる。
桂の名は「日本書紀」以来の古地名「葛野(かつらの)」からくるといわれ、平安時代初期成立の「上宮聖徳太子伝補闕記」には「山代楓野村」と記される。その後桂には公家の別荘が営まれ、歌枕ともなった。また鮎を売歩いた桂供御人や後の桂女も桂を根拠地とする。これら桂の名でよばれる地は本来この下桂の地をさし、平安中期以降に荘名として現れる上桂・桂東・桂西・桂南などは、桂(後の下桂)に対する位置関係を示している。
江戸前期の下桂村は、「京羽二重織留」に家数102軒、享保14年(1729)の山城国高八郡村名帳では村高1112石余で、すべて京極宮家領。「祇園社記」によると、天和3年(1683)祇園社(現八坂神社)の神事に、鳥羽村などと並んで下桂村から具足・刀・鑓・長刀の人足が奉仕している。 桂には嵯峨・梅津(現右京区)とともに丹波地方から桂川を筏で移送される木材の陸揚場があった。天正14年(1586)の筏宿に始まり、「桂組」とよばれる材木問屋が発展、元和5年(1619)京都所司代より桂浜11軒の材木屋の出店を認可された(地蔵院文書)。桂組では所司代に毎年鳥目200銅を、領主八条宮に丸太材木を献納した。11軒の商人の出身地は丹波保津・大谷・山本各村(現亀岡市)で、在方筏問屋の小百姓であった。彼らは大堰川(桂川)筋の丹波材の独占的直買権をもち、享保19年には株仲間が公認され(村上市左衛門家文書)たが、直買をめぐり山方と争論が多発し、抜駆け取引や内部統制の乱れから独占権はしだいに揺らいでいった。 明治10年代の調べでは119戸、606人、2社3寺、牛25頭、馬3頭、和船8隻、人力車5両、荷車15両を数え、桂川以西屈指の村であった。物産は越瓜(白瓜)・飴・茶が記される(京都府地誌)。飴は桂女が堂上公家に参じて献じたことと関係があろう。(平凡社『日本歴史地名大系』による。)
文書群
「風間家文書」は、総287点。田地や畑、薮地、山地などの売買に関する文書がほとんどである。薮地や山地が多く売買されているのは、下桂村の西方に嵐山から加茂勢山(ポンポン山)に連なる山地があるからであろう。そのほかにも、渡船株や塩屋株などに関する文書が残っている。しかし、風間家についてわかるような文書は少ない。
文書の年代は近世が64点、近代が165点、不明が58点である。そのなかで、明治10年(1877)前後の文書が多く残っている。
なお、風間家文書は京都府立総合資料館にも所蔵されており、133点ある。ほとんどが所有する山林・立木に関するものであるが、中でも伐木願書が圧倒的に多い。(京都府立総合資料館HP)そのほかにも、『史料 京都の歴史 第15巻 西京区』(平凡社、1994年)の「西京区関係文書目録・解説」によれば、風間(尚)家文書(京都市歴史資料館所蔵)が87通あり、そのほかにも風間(八)家文書(風間八左衛門氏所蔵)が5点、風間(光)家文書(風間光雄氏所蔵)が14点ある。解説によれば、風間(尚)家文書は桂川渡船関係の文書があり、渡船の運営と権利関係に関する良質な史料であるとされている。
文書紹介
風間家は下桂村居住の塩商人であった。近世では鍋屋の屋号を用いていた。風間家文書のなかで、塩売買に関する文書を紹介する。(No,1-2・3・5・6、No,2を中心に紹介していく。)
塩仲間は塩屋株を持っている人々のことで、塩売買を取り仕切っていた。定によると、塩相場によって値段を定めること、代銀の支払いが滞っている相手に対しては返済があるまで売買を行ってはいけないことなどが定められている。そもそも下桂の人々は塩商売に関わっていたが、天明2年(1782)に「御殿様」から濱方役を仰せられたことによって、塩商売が繁栄したという。なお、塩屋株を持っているのは下桂村の人物だけではなく、上桂村・牛ヶ瀬村の人物も持っていたようだが、詳細は不明である。
塩売買についてみてみると、下桂村の塩仲間は淀・上ノ木濱で塩を仕入れ、そこから亀山に運んでいる。亀山は現在の亀岡市にあたり、その亀山は篠山海道(山陰道)と丹後道(京街道)の分岐点で交通の要衝であった。亀山にも塩を取り扱う問屋がおり、亀山に運ばれた塩は各地に運送されたのだろう。また、亀山は嵐山から加茂勢山に連なる山地を越えたところにある。亀山へは山陰道が通っていたので交通は容易であっただろう。塩の運送には馬が使われ、その駄賃をめぐって争いが起きている。
また、新規に塩商売をしようとする人物が塩仲間と対立していたという事例があり、下桂村周辺の人物だけでなく、亀山の人物も塩商売を始めるために、塩仲間加入を願い出ている。塩仲間としても、塩屋株を譲ってはいけないとの一札を出すなどしているが、それも裏を返せば新規に加入したいという人物が多くいたということを示している。
【地域】のところで紹介したが、塩だけではなく、材木も亀山から下桂村に運送されていた。塩は道、材木は川(大堰川・桂川)という差はあるが、下桂村やその周辺は丹波方面と京都を結ぶ物流の拠点であったといえよう。
(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)