1. 青島実業協会の成立と『青島実業協会月報』の刊行
19世紀末以降、中国へ進出する日本人が急増するなか(注1)、中国の諸都市では日本人の様々な経済団体が結成された。商業(もしくは商工)会議所はその代表例であるが、それらは実業協会や実業会を前身とするものが少なくなかった。戦前期の日本の中国進出にとって重要な拠点であった青島の商業会議所も例外ではない。1921年12月1日に青島日本商業会議所が設立されたが(注2)、その前身は青島実業協会であった。『青島実業協会月報』は、青島実業協会が1918年1月から1921年11月までの約4年間にわたり、計45号を刊行した定期刊行物である。
青島実業協会は、青島がドイツの勢力下にあった1913年、青島在留の日本人貿易業者により創設され(注3)、1921年11月に解散した(注4)。創設当初は「専ラ会員ノ和親協同ヲ以テ目的トシ」ていた(注5)。青島実業協会成立の翌1914年、第一次世界大戦が勃発した。同年8月、日本はドイツに宣戦を布告、11月には青島を占領し、その後ドイツが山東省に有していた諸権益を接収・継承した。日本の占領以降、青島への日本人の進出が顕著になり、青島在住の日本人は356人(1915年2月)から18,652人(1917年末)へと急増した(注6)。1917年3月の調査によると、青島在留日本人の職業内訳で最も多くを占めたのは「商業」(7,468人)であり、「工業」(2,919人)や「公務ニ関スル業」(2,875人)を大きく上回った(注7)。急増した青島在留日本人の経済活動は、多様な一次産品(落花生・石炭・塩・鶏卵・麦稈真田・棉花・牛肉など)を豊富に産出する山東省の産業構造との関わりが深く、多数の日本人貿易商が、それら一次産品の日本および欧米向けを中心とする輸出貿易に関わった。また、それら産品の加工・精製を中心とする様々な工業(落花生油精製工業・セメント製造業・製塩業など)への日本人資本の流入が活発化した(注8)。
『青島実業協会月報』は、以上のように「〔日本の〕青島占領以来、青島ノ商工業ハ挙ケテ本邦人ノ手ニ移リ、在留邦人ノ激増」(注9)が顕著になるなか、「青島貿易ノ発展ハ益々急務トナリ、実業協会ノ任務モ単ニ会員相互ノ親睦ヲ旨トスルノミヲ以テハ満足スヘカラサル状態ニ立チ至リタルヲ以テ、自ラ其ノ目的ヲ拡大シ各種経済事項ノ調査、貿易ノ発展、実業ノ振興ニ資スルヲ以テ目的ト為スニ至リ、其ノ機関雑誌トシテ」(注10)(読点は筆者)刊行されることになった。
青島実業協会の会員構成を、会員数が50にのぼった1919年12月を例にみてみると、大会社と中堅の会社・商店の支店や出張所、そして青島に本拠を構え一定の規模をもつ会社や商店が多くを占め、業種別では貿易、運輸、銀行および各種製造業が多くを占めた(注11)。これら会員は、資本の規模や本拠地により3つのグループに分けられる。1つめは日本内地、中国の青島以外の地および朝鮮に本拠をおく大会社の支店や出張所である。三井物産、三菱商事、大倉商事、日本綿花といった有力商社、日本郵船、中村組といった海運会社、横浜正金銀行、朝鮮銀行、大日本麦酒などがこれに含まれる。いずれも資本金は500万円以上であり、全会員数50のうち21例を数える。2つめは、1つめのグループに比べ資本金が少なく、日本内地、中国の青島以外の地に本拠をおく中堅の会社・商店の支店や出張所である。新利洋行、東洋塩業(以上、資本金100万円)、東洋製油(80万円)、山田出張所、日華協信公司(以上、50万円)など21例を確認できる。3つめは青島に本拠をおく会社や商店である。吉澤洋行、峯村洋行、青島製粉など6例を確認できる。これらの会社や商店は、1920年前後の青島で日本人経営による資本金1万円以下の小規模個人商店が少なくなかったなか(注12)、いずれも資本金が10万円~500万円の規模を有していた。
2. 『青島実業協会月報』の構成と史料としての利用の可能性
『青島実業協会月報』の構成は各号で異なるが、誌面の軸としてしばしば登場するのは「協会録事」「資料」「貿易」「海運及鉄道」「主要貿易品概況(もしくは商況)」「青島雑録」「内外経済要報(もしくは内外経済時報)」「会社商店彙報」「法規」「統計」の各欄である。
「協会録事」の欄は、青島在留日本人の経済活動に深く関わる事項について、青島実業協会が行った協議や関係機関への働きかけの状況などを伝える。「資料」の欄には、落花生、石炭、塩、牛皮、鶏卵といった山東の各種特産物の生産、流通、加工、輸出、消費に関する動向を紹介した記事が多く見られる。「貿易」の欄は、青島港の貿易動向を月単位で概観した記事が、「海運及鉄道」の欄は、青島港の各月の船舶出入数や貨物取扱数、個々の航路の近況、山東鉄道の輸送状況などを紹介した記事がそれぞれ中心を占める。また「主要貿易品概況」の欄では、青島港の主要輸出入品(マッチ、綿糸、落花生、塩、牛肉、鶏卵など)について、月ごとの取引状況が詳細に紹介される。このほか「青島雑録」の欄では、青島を中心に山東の経済や社会に関わる時事的な話題をコンパクトに紹介した記事が、「内外経済要報」の欄では、中国国内、日本内地、そして諸外国における経済関連の動向を紹介した記事が、「会社商店彙報」の欄では、青島に拠点をもつ日系の企業や商店の営業動向を紹介する記事が多くを占める。そして「法規」の欄では、主に青島守備軍当局から出された軍令、告示、布令の紹介が、「統計」の欄では、青島の輸出入貿易量、青島の鉄道駅における主要貨物の発着量や乗降客数、青島港に出入りする船舶の隻数や輸送貨物の重量、旅客数、青島屠獣場での動物の屠殺数などの整理が行われる。
以上のように『青島実業協会月報』は、日本の占領経営下にあった青島で、日本人経済界がどのような事象に関心を寄せたのか、また経済に関連する事柄を中心に、この時期の山東でどのような変動が生じていたのかを具体的に知りうる記事を豊富に含む。日本の青島占領、山東還付などを経験した1910年代後半~1920年代初期の山東の動向を、定期的かつ詳細に伝えるとともに容易にアクセスできる中国語史料を多く得ることが難しいなか、『青島実業協会月報』は、日本人の経済活動に関わる事柄に記事の内容がやや偏っているとはいえ、同時期の山東地域史の実態解明に有効な材料を提供するであろう。
これまで20世紀前半の山東について、近代中国および近代日本の外交史、経済史、あるいは山東地域史といった立場から高い関心が寄せられ、その中で1910、20年代に焦点をあてた研究も活発に行われてきた(注13)。ただ、『青島実業協会月報』に掲載された非常に豊富な記事を丁寧に読み込むことにより、同時期における山東の変動の実態やその歴史的意義について多角的な考察を行う余地はまだ大いに残されていると思われる。また、近代アジアの日本人経済団体について研究が進むなか(注14)、近代中国の日本人経済団体史研究に『青島実業協会月報』をどう活かせるかを検討することも今後の課題として残されている。
(吉田 建一郎(大阪経済大学経済学部))
注
目次情報の作成にあたっては、吉田建一郎氏よりデータ(*)をご提供いただき、また解題をご執筆いただきました。ここに記すとともにご協力に感謝いたします。
* 記事目録は本庄比佐子編『戦前期華北実態調査の目録と解題』(東洋文庫 2009年)に所収:p. 131-207 吉田建一郎「「青島実業協会月報』『青島商業会議所月報』『経済週報』の目録」