経済週報


青島日本商業会議所『経済週報』解題
-近代日本人の青島進出と経済活動-

日本人の青島進出は、『膠州湾租借条約』によりドイツが膠州湾(青島)を占領した1898年以後から見られる。しかし、ドイツ占領期(1898~1914)の在青島日本人はドイツ人などのヨーロッパ人に比べると少数であり、ドイツの青島占領末期の1913年にも316名にすぎなかった【表1】。1901年青島市内に在住していた日本人は50~60人くらいで、その大多数を売春婦が占めていた。1906年6月の調査によると、青島市内に在住する日本人は33戸の196名で、その多くが写真業(5戸)・珈琲店(6戸)・貸座敷業(4戸)などに従事していた(注1)。

日本経済界の本格的な青島進出は1910年前後からであった。1908年に三井物産が青島出張所を開設して以来、湯浅洋行、日信洋行(1911)、大倉(1912)などの貿易商が続々と出張所や支店を開設した。これら日本の貿易商は、山東産の落花生・落花生油・綿花・牛油などを主な貿易品としてその勢力を拡大していった。こうしたなか、日本と青島間の直接貿易も活発になり、その総額は1910年にはドイツに次いで2位にたち、1912年からはドイツを超えて1位を占めるようになった(注2)。貿易商を中心とするこれら日本人実業家たちは、日本人実業家の親睦と協同を目的として1913年青島実業協会(以下、実業協会と略記する)を創設した。この実業協会が後の青島商業会議所の前身である。1913年の時点で在青島日本人は、人口数においては中国人、ドイツ人と比べると少数に過ぎなかったが、青島経済界においてますますその影響力を拡張していった。

第1次世界大戦が勃発した1914年、日本はドイツに宣戦を布告し、青島で日本軍が戦端を開いた。1914年11月、ドイツの降伏により、日本は青島および膠済鉄道(山東鉄道)沿線、鉄道附属鉱山を占領した。占領直後から占領地に軍政を宣布した日本軍は、占領地統治機関として青島守備軍をたて、占領地の経営を始めた。占領直後の青島の開放とともに日本各地・中国東北地方(満州)・朝鮮・台湾から大勢の日本人が青島に流入した(注3)。大勢の日本人の流入、外所へ避難していた中国人の帰還によって、青島の人口は急増していたが、経済状況は非常に落ちこんでいた。戦争により多くの都市施設、鉄道・港湾などの産業施設が破損、崩壊したため、青島の経済・産業活動は沈滞しており、青島の主要産業であった貿易を例にすると、1915年の総額はドイツ占領期の最高額(1913年)の半分にも届かなかった【表3】。

戦後復旧と社会秩序の安定に伴い、青島守備軍は統治組織を大幅に改編し、1917年10月より占領地に民政を実施した。戦後復旧と急増する人口(特に日本人)への対応策として日常生活の基盤に力を注いだのが軍政期だとすると、民政実施後からは青島・山東での経済権益の確保と伸張を図るための措置がとられた。これは工場地の完成と拡張、商工業地および住宅地の大幅な拡張など、日本企業の誘致と定着を主な目的として進められた。産業インフラの復旧とともに青島港を窓口とした貿易も戦前の水準を回復し、1917年からは貿易総額が1913年の水準を上回るようになった。

貿易業の復興、海運業・運送業の発展、また綿花(紡績)・ビール・煙草などの製造工業が続々とその基盤を整えていく中、実業協会は1918年1月より『青島実業協会月報』(以下、『協会月報』と略記する)を発行しはじめた。『協会月報』は実業協会が解散する1921年11月(45号)までほぼ毎月発行された。『協会月報』には協会の会議録から協会(会員)の活動、青島・山東経済状況および日本・中国・世界の関連経済状況、青島・山東の社会状況、中国における日本人経済界の動きまでが扱われていた。その内容によると、実業協会は協会員の経済活動にかかわる様々な問題を、協会のレベルだけでなく、青島守備軍の関係当局・済南総領事・北京公使への陳情、協議、交渉などの方法で解決しつつ、またこうした日本政府機関の支援の下で青島・山東経済界での影響力を拡大していった。

1919年、第1次大戦の戦後処理のために開かれたパリ講和会議で、ドイツが持っていた山東省に対する権利を日本が継承することが認められた。それに対し中国内外では五四運動などの反対運動が引き続き発生し、中国政府は山東に対する日本の要求を拒絶した。その後、ワシントン軍縮会議で青島および山東鉄道沿線の中国政府への返還が決められた。返還後の問題が様々なレベルで議論される中、実業協会は占領地の返還後にも継続的な経済活動を営むための対策を模索していた。こうした中、実業協会の商業会議所への変更案が提案され、実業協会は青島商業組合、青島商工組合とともに青島商業会議所の設立に着手した。1921年11月23日には青島商業会議所の創立総会が開かれ、その後間もなく、実業協会は「会員一同が新たに生れたる商業会議所の事業に全力を傾注する」ために解散した(1921年11月30日付)(注4)。

青島商業会議所(商業会議所と略記する)は、青島で日本人による商工業が発達していく中、「青島実業協会、青島商業組合、青島商工組合、その他の各団体が組織されて」いたが、「何れも部分的であって未だ一般商工業を代表するに足るものがなかった」という意識から創立が図られた(注5)。これは「日本商工業者の結合を堅固にしてその進歩発達に必要なる方法を講し、或は官廳の諮問に応じ、外には支那人及歐米人の実業団体との連絡を密接にして我が商工業者の海外発展、特に支那中原開発に不断の努力を致さむとする」ことを目的としていた(注6)。商業会議所は活動の開始とともに1922年1月から『青島商業会議所月報』を発行した。現在、日本国内では1922年の1巻1号(1月)から7号(8月)、1923年の2巻1号(1月)の所蔵が確認できる。『青島商業会議所月報』は『青島実業協会月報』のように、「当所記録」、「資料」、「貿易」、「海運鉄道」、「商況」、「金融」、「重要経済統計」、「法規」などにわたって商業会議所の活動および青島・山東内外の社会経済状況を扱っていた。

1922年12月、日本が占領していた青島および山東鉄道沿線が中国政府に返還された。返還後の青島(青島市・大東鎮・四方庄・豐ァ口)における日本人は返還前より減少していったが、10,000名以上が青島に引き続き在住していた。その中でも、工場地帯である豐ァ口と四方の日本人はむしろやや増加する傾向を見せており、工業の発達により関連人口が増加していたことが分かる【表2】。1924年8月の時点で、青島における日本人経営の工場は103ヶ所(運転中94ヶ所、中止9ヶ所)あり、その内訳は紡績・製糸などの繊維工業が14、マッチ・染料製造などの化学工業が27、機械工業が12、食料品工業が30、その他の雑工業が20ヶ所であった(注7)。1910年代後半から段々と発展してきた青島の工業は、この時期には貿易業とともに青島の重要産業として成長した。

この時期の商業会議所は中国人の商業機関である青島商務総会、ドイツ人商業機関の独逸人協会、米国商業会議所とともに青島の主要商業機関として活動を続けていた(注8)。商業会議所の会員には、実業協会の主要メンバーであった大会社の支店や出張所、中堅の会社・商店の支店や出張所に加えて、小規模な個人経営の商店も少なくなかった(注9)。しかしながら、青島返還直後の青島日本経済界は厳しい状況に直面していた。日本占領期に日本企業に与えられていた港湾・埠頭・鉄道関連の特恵(埠頭利用料・埠頭倉庫利用料・鉄道運賃の割引など)が段々と失われていったのに加え、在中国日本人の経済活動に打撃となる法律および規制の制定(中国工場法案など)、中国各地にわたる排日排貨の風潮が、青島日本経済界の懸念であった。

こうした当時の商業会議所の活動および青島日本経済界の状況、青島・山東の社会経済状況などを具体的に見せているのが商業会議所の『経済週報』である。『経済週報』は1923年4月26日からほぼ毎週発行され、日本国内では1号から145号(1926年4月12日)までの所蔵を確認することができる。『経済週報』は、『青島実業協会月報』、『青島商業会議所月報』のように青島・山東の経済社会状況を中心に、それと関わる中国・日本・世界経済の状況を扱っていた。また経済関連法律や取引紹介など、実際の経済活動と深く関わる関連情報も載せられている。『経済週報』の内容を概略的に見ると、既存の重要産業であった貿易およびそれと関わる埠頭(荷役)・鉄道関連内容に加え、紡績・マッチなどの工業関連の内容が目立つ。それとともに青島・山東および中国各地における排日排貨の影響や、返還後の経済活動における苦衷などに関する内容も少なくない。『経済週報』は、政治・経済・社会全般にわたって変化が起こっていた返還後の青島の社会経済状況や青島日本経済界が直面していた問題などを、在青島日本実業家の立場から扱っている。
(権京仙(神戸大学大学院文科学研究科))

【表1】ドイツ・日本占領期における青島の各国人口(1898~1922)(単位:名)
年度\国籍 中国人 日本人 その他外国人 合計
1898 ドイツによる膠州湾租借開始
1902 14,905
(―)
1901年50-60
(―)
688(―)
1905 28,477
(―)
207 1,232
(―)
29,918
(―)
1907 31,509
(―)
161 1,493
(―)
33,163
(―)
1910 34,180
(―)
167 1,642
(―)
35,989
(―)
1913 53,312
(―)
316 2,069
(―)
55,697
(―)
1914 日本による青島および膠済鉄道沿線占領開始
1915・12月 65,096
(164,135)
11,009
(14,738)
483
(667)
76,588
(179,540)
1917・3月 73,474
(177,784)
15,490
(22,071)
493
(493)
89,457
(200,348)
1918・3月 76,586
(181,079)
18,903
(25,894)
502
(509)
95,991
(207,482)
1919・3月 79,929
(189,957)
19,553
(26,355)
529
(525)
100,011
(216,837)
1920・3月 82,680
(193,036)
19,689
(26,524)
698
(698)
103,067
(220,258)
1921・12月 (215,669) (24,262) (469) (240,400)
1922 (24,132) (387)

出典:1902~1920年は青島守備軍副官部『青島守備軍第一統計年報:大正四年度』(1917.5)、青島守備軍司令部『青島守備軍第二統計年報:大正五年度』(1918.4)、『青島守備軍第三統計年報:大正六年度』(1919.3)、『青島守備軍第四統計年報:大正七年度』(1920.3)、『青島守備軍第五統計年報:大正八年度』(1921.7)より作成。1921~1922年は在青島日本帝国総領事館『青島概観』(1924.10)、14頁より作成。
注:ドイツ占領期(ドイツ軍人)・日本占領期(日本軍人)とも管内居住の軍人は含まない。
( )内は青島・李村・膠済鉄道沿線の総人口を示す。

【表2】青島および附近の日本人数(1923~1925)(単位:名)
年度\区域 青島 台東鎮 李村 滄口 四方 合計
1923・4月 15,076 836 27 956 773 17,668
1924・11月 11,303
(朝鮮人108名を含む)
464 4 1,149
(朝鮮人4名を含む)
698 13,618
1925・7月 11,288
(朝鮮人120名を含む)
451 1,015 766 13,520

出典: 青島日本商業会議所『経済週報』第5号(1923.5.24)、第83号(1924.12.29)、第117号(1925.8.24)より作成。

【表3】青島の貿易総額(1901~1924)(単位:銀円)
年度 貿易額(輸出入合計) 年度 貿易額(輸出入合計)
1901 9,374,000 1912 94,761,304
1902 17,276,732 1913 102,125,054
1903 24,861,262 1914 64,387,375
1904 32,426,596 1915 41,264,265
1905 39,450,972 1916 71,177,390
1906 51,592,440 1917 123,419,227
1907 49,701,985 1918 113,067,725
1908 65,019,877 1919 138,688,609
1909 64,200,000 1921 127,000,000
1910 69,400,000 1923 108,380,812
1911 89,960,000 1924 134,407,124

出典:1901~1919年は青島守備軍司令部『青島守備軍第五統計年報:大正八年度』(1921)、1921年は青島守備軍民政部『民政概況』(1922)、1923年・1924年はそれぞれ青島日本商業会議所『経済週報』第44号(1924.3.3)、第90号(1925.2.16)より作成。

参考文献

田原禎次郎『膠州湾』満州日日新聞社(1914)
青島軍政署『青島要覧』(1916)
青島守備軍副官部『青島守備軍第一統計年報:大正四年度』(1917.5)
青島守備軍司令部『青島守備軍第二統計年報:大正五年度』(1918.4)
青島守備軍司令部『青島守備軍第三統計年報:大正六年度』(1919.3)
青島守備軍司令部『青島守備軍第四統計年報:大正七年度』(1920.3)
青島守備軍司令部『青島守備軍第五統計年報:大正八年度』(1921.7)
青島実業協会『青島実業協会月報』第45号(1921.11)
青島商業会議所『青島商業会議所月報』第1巻第1号(1922.1)
青島守備軍民政部『民政概況』(1922)
青島日本商業会議所『経済週報』第5号(1923.5.24)
青島日本商業会議所『経済週報』第44号(1924.3.3)
青島日本商業会議所『経済週報』第83号(1924.12.29)
青島日本商業会議所『経済週報』第90号(1925.2.16)
青島日本商業会議所『経済週報』第117号(1925.8.24)
在青島日本帝国総領事館『青島概観』(1924.10)
吉田建一郎「『青島実業協会月報』『青島商業会議所月報』『経済週報』の記事目録」:本庄比佐子(編)『戦前期華北実態調査の目録と解題』東洋文庫(2009)

1. 田原禎次郎(1914)『膠州湾』満州日日新聞社、540頁。
2. 同上、541頁。
3. 青島軍政署(1916)『青島要覧』、11頁。
4. 青島実業協会『青島実業協会月報』第45号(1921.11)、26頁。
5. 青島商業会議所『青島商業会議所月報』第1巻第1号(1922.1)、1頁。
6. 同上。
7. 在青島日本帝国総領事館『青島概観』(1924.10)、77~78頁。
8. 同上、75頁。
9. 吉田建一郎「『青島実業協会月報』『青島商業会議所月報』『経済週報』の記事目録」:本庄比佐子(編)『戦前期華北実態調査の目録と解題』東洋文庫(2009)、134頁。


⇒デジタルアーカイブで『経済週報』の画像を見る